【第28話:足元からはがれ落ちる君の気配】

「つっまんねーの!!!!」
「うるせぇ!!黙って勉強しやがれ!!クソ猿!!」
「あー!?もうほら!?そーやって三蔵、すぐ怒んじゃん!!」

放り出された筆が宙を舞って、広い執務室の床にベタリと派手な墨汚れをつける。執務室を荒らされるのは、もう慣れたことだというのに。些細な行動が癇に障って、懲りずに新たな燃料が継ぎ足された怒りの炎は、ますます大きくなった。

手近な場所に重ねた書き損じの書状を数枚まとめて丸めると、ぎゃあぎゃあと生意気に文句を言う悟空の頭目掛けて、大きく振りかぶった紙屑を全力で叩きつける。

「うわッ!?何すんだよ三蔵ッ!!」

勢いよく投げつけられた紙屑の跳ねた頭頂部を押さえて口を尖らせる悟空を睨みつけて、さっき火をつけたばかりの煙草を灰皿へと放り込む。このまま吸い続けていると、確実にフィルターを噛みちぎりそうだ。

怒鳴り散らしたのは、果たして何度目か。目を離した瞬間、決まって何かしら問題事を起こす猿が一匹。動くなと言ったところで、当然聞きやしない。悟空のやらかすあれそれに、冗談抜きで頭の血管が二三本逝きそうだった。

「貴様が大人しくしてりゃァ大声出さずに済むってのが判らねぇのか!!」
「三蔵が死ぬほど短気なのが悪いんじゃん!!」

静かにさせようと思って怒鳴りつければ、喧しい口答えが全力で返ってくる。絵に描いたような、負の連鎖。ぷいっと顔を背けた悟空の耳の痛すぎる意見に、盛大な顰めっ面をして長々と溜息を吐く。

普段の倍増しで機嫌の悪い人物から守ってくれる人物は居ないから、いつものようには逃げられない。日に日にヒートアップする怒りを朝から晩までぶつけられる悟空には、理不尽極まりないことをしていると頭では判っている。そう──判って、いるのだが。見ての通り、このザマだ。

「……クソッタレ」

集中力が続かない。ガシガシと頭を引っ掻き、悪態をつく。いつもなら適当に筆を走らせて終わらせるはずの書状は、どういうわけか書き損じばかりして、一向に仕事が進まない。書けば書くほど集中力の糸は細くなって、ふとした瞬間に途切れる。堂々巡りで振り出しに戻った仕事に、またもや苛立つが募る。その繰り返しだ。

悟空を怒鳴り散らした拍子に墨が滲んだ紙面を放って、ついでに筆も捨てた。延々と進みもしない作業を機械的に繰り返すのも、いい加減飽きてきた。できあがった書状が増えるより、こうして書き損じが溜まっていくペースの方が断然速い。

「……あの馬鹿、何処行きやがった」

紫雨が居なくなった。思わず恨み言が漏れるほど俺の頭を悩ませている人物は、あの夜を境に姿を見ていない。

子供は苦手だとあれだけ文句を言っていたクセに、紫雨は悟空の扱いが上手い。否、慣れているというより、圧倒的な余裕があると言った方が正しい。何が起こっても動揺せず、笑っている。紫雨にかかれば、たとえ寺の一部が吹き飛ぶ大惨事が起きたとしても「まあ、そんなこともあるんじゃない?」の一言で始末される。

俺が目くじらを立てて怒鳴り散らす悟空のやらかし案件など、紫雨にとっては取るに足らない些細な出来事に過ぎない。うっかり仏具を粉々にブッ壊そうが、廊下に泥だらけの足跡をつけようが、扉を金具ごとブチ抜こうが、庭の大木を幹から折ろうが、執務室の窓を割ろうが。表情に余裕を湛えて、けたけたと笑っている。

だって、遊び盛りの子供がしたことでしょ?もちろん何から何まで許せとは言うつもりはないし、人様に迷惑がかかることはちゃんと叱って謝らせた方が良いと思うけど。やらかしたことで驚いたり、苛立ったりはしないかな。所詮、子供の遊びだから。

どうしてそんなに落ち着いていられるのか訊ねた俺に、真横で俺の部屋の扉が吹っ飛んでも平然とした表情を崩さなかった紫雨は、少し考える時間を置いて静かに言葉を返した。事あるごとに条件反射よろしく悟空の頭にハリセンを振り抜く俺が、彼女を真似るのは絶対に無理だ。そう思い知って、育て方を参考にすることを諦めた。

私たちの遊びなんて、うかうかしてると死んでたからなぁ。おもむろに付け足された余計すぎる一言に、そもそもの基準が違うことを悟った。言っておくが、お前らの遊戯とやらは同族同士の殺し合いだ。唐突に紫雨の口から飛び出したブラックジョークは、あの時の怒りの炎を瞬時に鎮火するには十分すぎるほど冷えていた。

「いつにも増して、機嫌悪いですねぇ。二人とも」
「緩衝材になる紫雨が居ねェからだろ」

全部聞こえてんだよ、野郎共。当たり前のように入り浸っている八戒と悟浄のやり取りに、わざとらしく聞こえるように舌打ちをする。

悟空の家庭教師代わりである八戒が慶雲院に居るのは理解できるが、何故クソ河童まで我が物顔で家同然にくつろいでいるのだ。尻を蹴り飛ばして部屋から追い出したいレベルで、心底納得がいかない。

いや。野郎共が俺の執務室に居るのも原因を辿れば、普段溜まり場として使われている仮家の主である紫雨が不在にしているせいだ。何も言置くことなく、外出したまま戻る気配のない紫雨に、一周回って苛立ちを覚えている自分がいた。

首輪をつけたところで、すり抜けられる。そんな言葉を盾にして、しっかりと首根っこを掴んでおかなかったことを後悔した。

「なあ、サンゾー!!紫雨、しばらく帰って来れないって言ってたけど!!そんな機嫌悪くなるなら、探しに行けばいーじゃん!!まだ二日しか経ってねーけど!!」

ちょっと待て。言っていたとは、一体どういうことだ。喚かれた言葉を右から左へ流そうとして、寸前で思いとどまる。

「…………ああッ!?今なんつった!?」
「ひぇぇぇっ!?!?」

今度は一文字も書かれることなく、手の中でまっさらな紙が握り潰されて、あっという間にゴミになった。癇癪を起こしている悟空はヤケクソで言ったのだろうが、無視できない発言に噛みつかんばかりの勢いで聞き返す。

「アレ!?秘密とか別に言われて無かったっよな!?三蔵!!俺、紫雨に怒られない!?」
「知らんわ!!お前らまとめて後で説教だ!!」
「ええええっ!?俺も!?」
「当たり前だろうが!!」

うっかり口を滑らせたことに気付いて、慌てて口を両手で塞ぐも時すでに遅し。機嫌をとりなしていた八戒を盾に取って身の安全を確保した悟空は、真顔で背中越しに様子を窺ってくる。

珍しくかすかな怯えの色を表情に浮かばせた悟空の表情を見て、相当な迫力をもたらしたであろう数秒前の自身の行動を反省する。「あんまり悟空のこと怒鳴らないであげてよ?」と、紫雨が紡いだ言葉は、残念ながら守れそうもない。

「あの馬鹿は。帰って来てたのか」
「一昨日……サ、サンゾーが仕事してる最中に、紫雨来たから。話した…ケド……?」

おどおどとした悟空の頭に、苦笑した八戒の手のひらが乗る。そんなに脅さないであげてください。そう言いたげな緑色の訴えを聞いてやりたいのは山々だが、生憎こちらには余裕が無い。

突っ込まれることが分かっていて、狙って帰ってきやがった。しかも悟空にだけ、不在を告げるとは随分と俺も舐められたものだ。ふつりふつりと留守にしがちであった紫雨であるが、入れ替わりの生活リズムのせいもあって、会話はおろか姿を見なくなって、そろそろ一週間になる。

これ、預けとくね。そう言われていた、悟空を探しに行く旅路で手に入れた銃弾が丸ごと消えていることに気付いたのは、つい今朝方のことだ。俺の居ない時にこっそり帰ってきているんじゃないかと思って、何気なしに紫雨の服の入ったクローゼットを開けて、それが無くなっていることに気付いた。

何も言わず出て行ったことを含めて、かなりの厄介事に首を突っ込んでいるのは、十中八九、間違いない。

「その時……何か言ってたか」
「え?しばらく帰れないから、三蔵の超特大カミナリが落ちない程度に良い子にしてなさいって言われた」

怒られない程度に、と。言わない辺り、何とも紫雨らしい。小規模なカミナリは連続して落ちているが、寺院から蹴り出されて紫雨の家を避難所にしなければいけないほどの落雷案件を起こしていない悟空は、確かに彼女との約束を守っているから褒めてやるべきなのかもしれない。

「……他には」
「家の鍵は失くすと困るから、三蔵の持ってる合鍵が入ってる場所に一緒に入れておいた。失くすと困るものも、そこに入れてあるって言ってた」

小さい頭にしては、上出来だ。忘れないよう何度も何度も、脳内で繰り返したのだろう。思い出そうと考え込む素振りもなく、滑らかに動いた口から伝えられた伝言内容に、ぴたりと動きが止まった。

「それだけか?」
「うん」
「オイ、悟空。その時、いつ帰るのか。紫雨は言っていたか?記憶ひっくり返して、よく思い出せ」
「え………………言ってなかったと思う」

仕事で長らく不在にする際。正確な日時では無いものの、だいたいの帰宅目安を告げてから紫雨が出掛けるようになったのは、一度寝込んでからだった。

他人が心配するという思考が欠けた紫雨のことだ。どうせ世話係が勝手に消えたら困る程度にしか考えていないのだろうが、この際的外れな理由を正すのはどうだっていい。

普段通りの外出に見せかけて、ひとつだけ欠けたモノ。ようやく気付いた違和感の正体に沈黙を挟むと、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。

「え!?三蔵!?」
「……あんのクソガキ!!やりやがったな!!」
「ちょッ!?仕事は!?」
「あの大馬鹿者を連れ戻すのが先だッ!!」
「わぁ!?三蔵がキレた!!」

ちゃんと帰るから。だから、居場所はそのままにしておいて。いつもなら口にすることのない言葉を吐いた紫雨の真意に気付かなかった俺は、相当な間抜けだ。

足元からはがれ落ちる君の気配

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