【第26話:さよならはゆっくりしよう】

「……今日も仕事だったんじゃないのか?」

途中で短い昼寝を挟んだおかげで、チビ猿の体力が全回復した。倍増しで喧しい悟空を構い倒して再度疲れさせ、夕飯を食べさせ、尻をひっぱたいて風呂に入れ、さっさと布団に叩き込む。

苦戦したあげく最終的にキレ散らかしてハリセンを振るう自分とは正反対に、手馴れた様子で最初から難なくこなしていた張本人が未だ自室に居たことに驚きを隠せない。

集中力が途絶えるまで。まったく進捗の無かった仕事に進展する兆しが見えたのは、紫雨が強硬手段を取ってからだ。結局、普段は風呂に入る頃に片付いた仕事には、もはや溜息しか出なかった。

「部屋覗く度に。出歩いたら殺すぞって目で見てきたのは誰かな?」
「わざわざ言わずとも、察せるようになったか。成長したな」

もうとっくに出かけているだろう。そのつもりで開けた自室の寝台の上で、肘をついて腹這いになっていた紫雨が大袈裟に肩を竦める。傍目に見ても睡眠不足の彼女を、出掛けて帰ってきたところをとっ捕まえて、布団に叩き込む。そんな物理的手段の実行を企んでいたのは、紛れもない事実だ。

「ごめん、嘘。三蔵が戻ってくる数分前まで悟空に右手掴まれてて、動けなかっただけ。それから『そろそろ三蔵が爆発する頃合なので、今夜は出歩かないでおくのが賢明です』って、八戒の三蔵ご機嫌予報を参考にした結果です」

続けられた言葉に長々とした溜息を吐いて、鈍い痛みを覚えた頭をゆるりと押さえる。他人に言われて、諸々の理由で諦めた。ぬけぬけと口にした紫雨は、有り得ないほど手遅れだった。悟空が手を握って爆睡していなければ、あっさりと八戒の忠告も無視して、このポンコツ頭が今日も今日とて出掛けていたことは間違いない。

「ほんとにどうしようもない奴だな。てめえは」
「あだっ」
「そっち行け。さっさと詰めろ」
「手荒だなぁ」
「てめえが悪い」

小さな頭の後頭部を掴んで、枕に押し付ける。いとも簡単に、ついていた肘を滑らせて、顔から突っ込んでいった紫雨が口を尖らせたのも束の間。今度は薄い肩を押して、窓側へと華奢な身体を転がす。

「寝室。別の部屋あてがおうとか思わないの?」
「……ハア?」
「ああ、うん。その気が無いのは知ってる」

空いたスペースに身体を並べて煙草へと火を点せば、上半身を起こした紫雨が窓辺に置いていた灰皿を差し出した。寝台に寝転がって煙草を吸うのは、今に始まったことでは無い。放っておけば山盛り待ったナシの吸殻を放っておかず、黙って溢れる前に捨てておく律儀さを持ち合わせた紫雨の問いかけに、軽く眉を上げる。

「曲がりなりにも監視対象を別部屋に放置して、逃げられました……なんて無様な事態だけは御免だからな。先に言っておくが、お前がどんな理由を並べ立てようと却下だ」

監視対象の一言に「だから、何処が……?」と、間髪入れず突っ込みが漏らされる。呆れるほど、良い生活を送っている。監視とは名ばかりで、何の制限も無く、基本的に好き勝手やらせてもらえる悠々自適な生活を送っていれば、そりゃあそういった言葉も出る。

「逃げる云々に関しては。極めて消極的になってるから安心して」
「悟空が常にお前の背中追いかけ回してるからな。ざまぁみろ」
「何かやらかした時。悟空よりもやる気出してきそうな人間が居るから、逃げる気が削がれてるんだってば」
「誰のことだ?」
「隣で煙草吸ってる、玄奘三蔵サマ」

うつ伏せのまま、肘をついて。ほんの少し上半身を起こした格好で、じとりとした目で見上げてくる紫雨と視線を合わせる。斜め下にある澄み切った空色は、多少辟易していると言いたげではあるが、言葉通り本当に逃げる気がないのだろう。ならば、何故急にそんなことを言い出したのか。疲れきった頭を回すまでもなく、あっさりと答えは目の前に降ってきた。

「クソ坊主どもに何か言われたか」
「言われたことについては否定しないし、言われたって右から左に聞き流すのは得意だから、一切気にしないよ。けど、悟空まで言われてるのがなんかね……頭にくる」

手渡したオレンジジュースの缶を開けながら言った紫雨は、すっと通った平行気味の眉を顰める。苛立ちを滲ませる彼女の横顔を眺めながら、出会った頃よりも感情が面に出るようになったと、しみじみ感じた。

「うっかり横っ面、殴るなよ」
「やらかしたら、もっと三蔵の立場悪くなるじゃん」

溢れかけた感情を飲み込むように、ゲンナリとした顔で缶を傾けた紫雨の喉がこくりと動く。

「だが。悟空の部屋を作るには、流石にまだ早いだろ?」
「それは私も同意だけど」

髪を引っ掛けて、仏具を壊した。泥だらけの足で廊下を歩いて、足跡をつけた。何かしらやらかした悟空をその場で紫雨が諭して、即座に謝って片付ける。やらかした張本人も、もちろん一緒に。

両手の指では、足りないほど。悟空のやらかし案件の尻拭いをしている紫雨の隠れた功績があっても。散々怒鳴って、悟空の軽い頭にハリセンを振るっている。彼女が居なければ、とっくに頭の血管はブチ切れているはずだ。

「現実問題。一つの寝台で寝るの狭くない?って話」
「お前が侵略してきたんだろ」
「元を辿れば、キレた三蔵が引きずり込んだんでしょ」

床で寝そべって悟空の寝顔を眺めていた紫雨に、手加減もせず枕を投げつけた。慈愛に満ちた顔で観察する暇があるのならば、寝る努力をしてもらいたい。

無理が祟って、具合を悪くした。そんな心臓に悪い倒れ方は、未だ記憶に新しい。あの時は、寝起きにも関わらず、怒涛の説教をした。その最中、豪胆にも眠りに旅立っていった紫雨に説教を中断して、寝台に放り込んだ。言っておくが、説教を子守唄にした覚えは微塵もない。

「文句があるなら、悟空と一緒に寝ろ」
「悟空のアクロバティックな寝相を寝てる時まで避けろと?」
「なら、隣でいいだろ」
「だからさ……もういいわ、ここで。落ち着くし」

紫雨が言わんとしていることが、男女が同じ布団で寝るのはどうなんだという当たり前すぎる疑問であるのは知っている。敢えて逸らした返事に、言い返そうとした紫雨が折れた。

坊主からすれば、気が気じゃない光景だろう。だが、その程度のことで心労がどうのこうのと騒いでいるようでは、この先やっていけない。敷地内で銃弾をぶっぱなした人間に、今更普通を求められても困るのだ。

「おい。それ、退けろ」
「やぁだ」
「じゃあ、別のとこ置け」

彼女の枕元に、半ば放られた刀と銃に視線を移す。ただでさえ狭い一人用の寝台の貴重なスペースを陣取っているそれらが、彼女にとって大切なものだと理解しているが、邪魔で仕方がない。

慌てて刀と銃を両手で抱き寄せた紫雨に、そんな物騒な物を持つなと言いたくなるが、戦うことが唯一の生まれる意義で生きる意義でもあった彼女に、それを言うのは酷な話だ。

「枕元に立て掛けて置いてたら。悟空が飛び乗ってきた拍子に、頭かち割る勢いで倒れてきた話したよね?寸前で避けたけど」
「知るか。大体、寝る時に武器を抱き枕にする精神が分からん」
「ちょうどいいの」
「ぬいぐるみでも抱いとけ」

寝ている時だって健在な危機察知能力は、少し分けて欲しいと思うくらいだ。悟空の何時何処から飛んでくるか分からない攻撃を、寝ていても簡単に避ける紫雨の身体能力は、確かに人間の枠から外れている。

くしゃりと何本目かの煙草を押し潰して、引っくり返さない位置に灰皿を置くと右腕を枕に身体を倒す。結局、頭の上の方に寄せておくことにしたらしい武器に、尚更物騒さが際立つ。

「三蔵。一つ聞きたいんだけども」
「……なんだ」
「私が魔天経文、使ったら。所有者の三蔵に分かったりするの?」
「ああん?」

閉じていただけの目蓋を上げて鋭い視線を投げかければ、慌てて引き上げた掛布団で顔の半分を隠した紫雨が言葉を続けた。本人は立派に隠れているつもりらしい。

「例えばの話だよ」
「何処がだ」

さっきのトーンは、例えばで済まない本気トーンだっただろうが。これからやりますと宣言している同然の紫雨の頭を手のひらで掴めば、ふぎゃあと情けない声が響く。

バレないと言えば、喜んでやるだろう。反対にバレると言って、素直に諦めてくれるかと言えばそうでも無い。バレると分かっていて尚も実行するのが、紫雨の性格だ。

「よっぽど説教されてえみたいだなあ、紫雨?」
「ひええっ!使ってないよ!神に誓って!決して!」
「必死だな」
「今から説教されるのはね。流石に嫌だ」

目の届かない場所で、果たして何をしているのか。そして、何を企んでいるのか。掴まれた頭にあわあわとしている紫雨は、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「なら。ここ最近、なにしてる」
「なにしてるんだろうねえ。当ててみれば?」
「はっ倒すぞ」

三蔵には分からないでしょう。お手本のような上から目線の言葉に、無防備にも晒されている額へと軽く握った拳を落とす。

「三蔵って、手が早いね」
「その言い方やめろ……お前。実は思った以上に疲れてるな?」
「えー?そう見える?」
「普段より数十倍、饒舌だぞ」
「あらまあ」

不機嫌になるわけでもなく、ケラケラと笑っている。若干壊れ気味の紫雨は、ハイテンションも良いところだ。一周回って、熱でもあるのでは無いかと疑った。思わず真顔になって、額に手を重ねる。手のひらに伝わったのは、普段と同じ、少し低いくらいの体温だった。

こちらが眠気に負けて思考が散漫になってくるのに対して、ぱっちり目を開いている紫雨は微塵も寝る気配がない。布団に入れば即寝る悟空と違って、根気強い寝かしつけをしなければならないのが紫雨の方というのは、一体どうなっているのだ。

「……いいから、寝ろ。疲れてんだろ」
「強制就寝が板に着いたね」
「食事と睡眠に関して、悟空より聞き分けの悪い自覚あるか?」
「無い」
「自覚しろ。今すぐに」

首裏と後頭部に回した手のひらで引き寄せた身体が逃げ出す前に、片脚と左腕で押さえ込む。少しばかり気が急いて、勢いがつきすぎた。

横っ腹に膝蹴り攻撃を食らった紫雨の、くぐもった呻き声が耳元で響く。俺自身、かなり強引で軽率であったという自覚はある。正直、心から悪かったと思った。

「……わざと?」
「マジでスマン……勢い余った」
「……さんぞーのばか」

これ以上の抵抗は、無駄だと悟ったのか。身体の陰へと引きずり込まれながらも、定位置とばかりに就寝体勢に入り始めた紫雨は、なかなか器用なものだ。おまけに、布団の中へと潜っていった紫雨の姿は、数分足らずで頭のてっぺん以外ほとんど見えなくなる。

「重いだろ」
「おもくない」
「巣ごもりすんな」
「……三蔵のせいじゃん」
「全ては衣食住が壊滅的に破綻してる、お前のせいだ」

まるで野生の小動物だ。すっぽりと感嘆するほど綺麗に収まった紫雨に、寝にくかろうと片脚を退かそうとすれば、不満げに唸る声が腕の中から聞こえた。

俺の傍であれば、警戒心を解いて寝ても大丈夫らしい。俺に拾われて、わずか数日目。しっかりと脳内に情報が追加されていたのが幸いした。これで寝る気配も無ければ、目も当てられない。

「ねえ、三蔵。そんなに心配しなくても大丈夫」
「何処に大丈夫な要素があるか言ってみろ。危険要素しかねえだろ」
「ちゃんと帰るから。それだけ……それと、あんまり悟空のこと怒鳴らないであげてよ?」

いつだって自分の言った言葉に、逃げ道を作っておく紫雨にしては珍しい。自ら退路を絶った彼女の落ち着いた声に、どうせ巫山戯た言葉が返ってくるんだろうと思っていた俺は、見事に返す言葉を失った。

「……ねえ、ちょっと。何でびっくりしてるの」
「……無茶言うな」

唯一残念なのは、その表情が見えないことだ。やや間を置いて、吐かれた溜息に滲む感情が羞恥ではなく、困惑である辺り彼女らしい。

「自分の命を丸投げするつもりは、微塵も無いけれど。最初にした約束だけは、絶対忘れないでね」

委ねるのは、最期の幕引きだけだ。凡ミスをして怪我をしたって、どうせ死なないんだから。そんな精神で生きている紫雨にとって、命の重さは消耗品と同等程度かそれ以下の価値しかない。

「要らなくなったら、殺してやる。当分その予定は無いけどな」
「……三蔵のために、もう少し生きてあげるよ」

引っ込めるタイミングを見失って、後頭部に回しっぱなしになった手のひらをほんの少しだけ引き寄せる。額が胸元に当たるか当たらないかの距離で動きの止まった手は、単にそこから進める勇気が無かっただけの話だ。

さよならはゆっくりしよう

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