【第16話:儚く生きるには何か足りない】

いつの間にか、ベッドで寝ていた。衣擦れの音と身体の上に新たに増えた、わずかな重みに一瞬だけ現実に戻りかけた意識は、隣に寝転んで腕を拘束をしてくる小さな体温のせいで敗北を喫する。

夢うつつに引き寄せた身体に重みを増やした掛布団に残ったうっすらとした煙草の匂いを鼻先に感じつつも、そのまま目を開けることができず二度寝を決め込んだのは、陽が昇る前だ。

ポットに残った紅茶を全部飲み干したらちゃんと寝るから、もう少し話に付き合ってよ。毎度の如く寝るのを先延ばしにして、くつろげるソファに移動した。それから、しばらく経った後の記憶が曖昧だ。普段はコーヒーしか飲まないクセして、三蔵がストレートの紅茶をカップが空になる側から追加要求していたような。そこまで思い出して、静かに二度目の眠りの海の深い場所に思考は呑まれていった。

「…………ん……眩し…」

カーテン越しに差し込む陽射しの眩しさを拒むように寝返りを打てば、隣で寝ていたはずの悟空がぴょんとベッドの上に飛び乗って、トランポリンさながらスプリングが軋む。

「おはよー、紫雨!具合、どう?」

今、何時だろう。いつもなら寝る前に近くに置くはずの時計が見当たらず、探す途中で力尽きていれば、頭の上から明るい声が降ってくる。毎朝きっちり同じ時間に布団を引っペがして行く悟空が掛布団を奪い去っていかないから、まだ起きるには早い時間ということだろうか。

「戻ってくるまで、寝てろってさ」

ぱっちりとお目覚め状態の悟空は、目覚めの気配を察知するのが速かった。かたや寝起きで頭の回転が停止しているのと変わらない私は、情けなくもベッドの上にひっくりかえったままである。

「……誰が」

そう掠れた声で呟いてから、誰がもクソも無いと気付く。私に命令ができる人物は、昨夜この家に泊まり、朝日が昇りきらぬ頃に起き出して、掛布団を律儀に追加していった男しか居ない。

「ほら、これ!」
「悟空……悟空、近すぎて何も見えない」

反古紙を眼前に押し付けてくる悟空の手から、どうにか紙をもぎ取る。達筆でデカデカと書かれた「寝てろ」の三文字と、わざわざ叩き起こされて言付けを頼まれたであろう悟空に同情する。

「……朝弱いクセによくやるわ…」
「それが俺の仕事なんだよ」
「あ。三蔵!おかえり!」

随分と早いお帰りだ。独り言に返事をした主は、朝の勤行を終えたと見える。寝転がったまま少し窮屈そうに欠伸をすれば、上半身に乗っていた悟空が首根っこを掴まれ、ポイッと床に投げられて視界から消えていく。

「向こうに朝飯あるぞ」
「マジで!?腹減った!!」

バタバタと足音を立てて寝室を出て行った悟空の後ろ姿を見送って、ようやく寝ぼけ眼を擦りながら起き上がる。足元に蹴っ飛ばされて丸くなった掛布団は、こちらが手を伸ばす前に三蔵によって畳まれていた。

開けっ放しの扉から寝室まで届く騒がしい悟空の声に、すかさず「やかましいわ!」と飛ばされる三蔵の怒声を聞きながら、もう一度大きな欠伸を漏らす。これだけ周りで騒がれれば、いくら寝起きの悪い頭でも起きる。

「……具合は」
「生きてるから、大丈夫」

ぐっと身体を伸ばして動きのマシになった身体に、うんと頷く。心做しか残念そうな顔をしている三蔵を見上げて、これは寺に強制移送されるところをギリギリ寸前で回避したなと苦笑いする。

「ったく……あんまり心配かけんなバカウサギ…」
「さんぞー、なんか言った?」
「言ってねえ!」

今日の服装は何にするか。頭を突っ込んでクローゼットを漁っていたせいで、背後で何やら呟いた三蔵の声をうっかり聞き逃した。



「……絶対倒れんなよ」
「その時はちゃんと連絡するよ」

一時間ほど前に「少し出掛ける」と告げた言葉に、三蔵はコイツは何を言っているんだ?と、悲しくなるほど蔑んだ視線を投げてきた。

悟空に連れられて、裏手にある家から久々に寺へ。庭を駆け回って遊んでいた悟空は、朝が早かったせいか三蔵の執務室の床でぐっすりと寝息を立てている。おかげで、やいのやいのと遊びの催促をされたり、駄々をこねられることも無い。至って、平和なものだ。

先程まで三蔵が書き進めていた三仏神への報告書とは名ばかりで、初めから終わりまで御丁寧に選ばれた苦情の言葉が並ぶ手元の書簡には見て見ぬ振りをした。決して、私は悪くない。

「居場所も分からんのに、どうやって探させるつもりだ。町内マラソンさせる気か」
「それもそうだねぇ…?まあ、心配しなくとも陽が暮れる前には戻ってくるから安心して」

かかとを靴底に沈ませると、爪先を軽く打ち付ける。出掛けることに渋い顔をしながらも玄関口まで見送りに出てきた三蔵は、腕を組んだまま溜息を吐いた。

ここで外に出るなと止めたとて、所詮その場しのぎにしかならない。遅かれ早かれ、目を盗んで私が居なくなるのは、三蔵の中では決定事項らしく、引き止めるような言葉は出てこなかった。やっぱりやめろと気が変わって言われる前に、この場から逃げるが勝ちだ。

「……っと!?」

寺院の敷地を抜けて路地に入って、さほど時間も経たぬ頃。路地の陰から、にゅんっと長い耳を持つ白い頭が覗く。ぴょこんっと跳ねた耳、白玉のような真ん丸の頭と瞳。

遅れて振られたうさぎの小さな手と、路地の角から頭を出して様子を窺うように傾げられたその首に、ワントーン低い声が出た。

「……こんなところ彷徨いてたんですか?」
「ええ?折角出向いてあげたのに」

オレンジ色の服を着たうさぎのヌイグルミを、大の男が持ち歩いているというのはどうなのか。差し出されたそれを両手で抱けば、黒い法衣を着た男が姿を現す。

危うく鉢合わせるところだった。早めに三蔵の許可を貰って、外に出てきたのは正解だ。こんなヤツと顔を合わせれば最後、ドンパチ騒ぎどころでは済まない。

「身体、大丈夫なの?まだ顔白いけど」
「一応、快復したので。結構です」
「診てあげようか?」
「全力でお断りします。改造されたくないんで」
「心外だなぁ。君を連れ出した人も、それだけは感謝してくれてたのに」

空き家の壁に背を預けた男は、此処から移動する気は無いらしい。立ちっぱなしでは数日前同様に目を回しかねないから、丁度近くにあった果物の入っていた木箱に腰掛けて軽く脚を組む。

薄暗い路地裏で更に濃い影を形づくる二人は、今や完全に外界から切り離されていた。異質な空間ながらも身を置くことに違和感の無い雰囲気に、自身は表世界に出るべき人間では無いと再認識する。

「って。なんか良い格好してるね?」
「……好きでしてるんじゃない」

物珍しい物を見るかのように、頭のテッペンから爪先までゆっくりと視線を動かした男は予想外とばかりに目を見張る。代わり映えのない普段の格好ではなく、小綺麗な服装はほとんど悟空を探す旅路で三蔵が揃えたものだ。良い格好と評されるのも当然である。

「こんなの付けるようになっちゃって」
「触らないでください」

空色のピアスに伸ばされかけた右手を、耳に触れる前にやんわりと止める。別段思い入れなど無いが、他人の手に触れたことを知れば、きっと三蔵は良い顔をしない。根拠の無い確信が生まれた理由も、自分でも触れようとした手を何故止めようと思ったのか。さっぱり分からない。

「あれれ。誰かに首輪でもつけられた?」
「失礼極まりないですよね……死に場所が見つかったって感じです」
「ああ、そっち。良かったねえ」

研究所から出て、自分が飼い主に従順な犬では無いと知った。むしろ気に食わないことがあれば、即座に飼い主の手に噛み付く主義だ。いちいち行動を縛って命令してくるような相手なんて、こっちから願い下げである。

一本どう?と差し出された煙草を一本箱から抜くと、ライターで火をつける。ココアシガレットをかじっていて、三蔵はすこぶる驚いた顔をしていたが吸えない訳では無い。ただ、味の好みが激しいだけだ。

「……わざわざ手紙まで寄こして。何しに来たんですか?ただ顔を見に来たって云うくだらない理由だったら、このうさぎ連れて今すぐ帰りますよ」

甘ったるい煙草を吸いながら、膝上に乗せたうさぎの頭を撫でる。少しだけフサフサとした、ヌイグルミ特有の毛並みを手のひらで味わいながら、視線を爪先に落とす。

「うーん。何だと思う?」
「こっちが聞いてるんだっつーの……」

みっともなく電池切れで倒れていた最中、玄関扉に挟まれていた手紙を悟空から受け取った。書かれていたのは、子供のラクガキのようなうさぎの絵だ。見覚えのありすぎるそれは一見イタズラと見紛うが、要件を告げる文面か無くとも馬鹿げた絵一つで送り主を完全に理解した。

いつもならば。どさくさに紛れて仮家に上がり込まれるか、もしくは連れ去られているところだ。人をひたすらオモチャにして帰っていくのに、今回は嫌に大人しいから不穏極まりない。

「一つめは、身体の調子の確認」
「元気ですよ?驚くほどに」

煙草の煙を吐き出しながら言えば、本日二度目の蔑みの視線が刺さる。そんな変なことを言ったつもりは無いが、何故こうも呆れられるのか。

「味覚も、痛覚も、回復能力の速さも。いっぺんに吹っ飛ばしといて、よく言うよ」
「……今は全部戻ってます」
「体力含めて、軒並み通常値どころか平均以下だけどね」

研究所に居た頃は、どんなに時間が掛かっても半日で動けるようになっていた。動かなければ、それ相応の罰が下っていたという理由もあるが、今回はどうだ。甘く見積もって、丸三日。三蔵が強制的に、寺へと連れ戻して監視下に置こうとした行動にも一理あるといえる。

「別に、戻らなくても良かったんですけど」
「それ。必死になって、君を連れ出した人の前で同じこと言える?」
「…………もう、居なくなりましたから」

言えるわけが無い。研究所から連れ出した死んだ人間にも、二度目に拾い上げた三蔵にもだ。怪我をすれば、心配そうな顔をして文句を言いながら治療をする。体調を崩せば、傍についている。性格の違いこそあれど、何の因果かやることは驚くほどに同じだ。

「でも、お互いさ。往生際悪く、こうやって。結局のところ、忘れきれなくて。馬鹿みたいだと思わない?」

黒い法衣と、黒基調の服。死を悼む色を纏うのは、一種の罪滅ぼしのようなものだ。隣に立つ男が誰かの死をきっかけに道を踏み外しつつあることは何となく分かるが、かと言って正しい道への導き方なんて分かりもしない。

「とにかく。惨めに死ぬのだけは嫌なんでしょ?新しい主に殺してもらいたいんだったら、身体は大切にしないと」
「その心は」
「君の場合、故障するとメンテナンスがとっても面倒だからヤダ」

語尾にハートマークでも付きそうな語調で、満面の笑みで告げられた本音に「別に頼んでないけどな」と即座に言い返す。

自分でも同じことを考えているのだから、面と向かって言われたところでダメージを受けるはずもなく、もう少し簡単な作り方をしてくれれば良かったのに、と。人知れず、製造者を何千回目か呪うのだ。

儚く生きるには何か足りない

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