【第11話:夜毎世界は救われた】

深い眠りに沈んでいた意識が醒めていく。

ふわふわと身体を包む、陽だまりに似た温もりと落ち着く香り。もう少しだけ寝ていたいと思う一方で、一度眠りから浮上してしまった意識は、あっという間に鮮明な色を取り戻す。

閉じていた目蓋をゆっくりと持ち上げれば、視界が真っ先に捉えたのは白色だった。無意識のうちに身動ぎをした私に、頭上から聞こえる規則正しい寝息がほんのわずか乱れて、やんわりと腰に回された左腕が互いの距離を近くする。

(なんだ……金蝉か)

わざわざ身体を起こして、確かめるまでもない。おそらく斜め上では自身の右腕を枕にして眠る、嫉妬するくらい美人な寝顔が惜しげもなく晒されているはずだ。

ずるずると引き寄せられていった私の身体を追いかけるようにして、少し遅れて背後で別の気配が動く。背中に顔をくっつけて寝ている相手は、むにゃむにゃとよく分からない寝言を口にしながら、未だ夢の中で遊んでいる。

(もう少し寝てても、怒られなかったなぁ)

正面で当たり前のように私を抱えて寝ている金蝉と、くうくうと寝息を立てて背中に張りつく悟空。二人分の体温に挟まれた身体は、薄い掛布団の下でも道理で温かいわけだ。

朝ごはん、なに作ろう。冷蔵庫、なに残ってたっけ。私も金蝉も、朝からがっつり食べるタイプじゃないけど、悟空は沢山食べるから多めに作った方が良いだろうな。ほこほことした体温に挟まれるせいで、二度寝へと足を踏み外しそうな頭で、ぼんやりと献立を考える。

(って……あれ?金蝉の部屋、泊まってなくないか?)

昨日の夜ごはん、なに作ったっけ。そこまで考えて、思考が停止した。いや、待てよ。作ったどころか、食べてすらない気がするぞ。

都合よく改竄しかけた記憶をゴミ箱へと放り込んで、昨夜の記憶を慎重に辿っていく。悟空を金蝉のもとへ送り届けた後、一人で屋敷に帰った。眠りの淵を揺蕩うような感覚の中、寝室を訪ねてきた人物と言葉を交わしたことは夢うつつに覚えているけれども、どこか記憶が朧気で判然としない。いつもの流れからすると、ああなった私が唯一部屋に入ってきても追い返すことのない金蝉によって、しっかりと寝かしつけられたのであろう。

そこまでは良かった。いいや、色々と良くはないけれど。とりあえず、良しとしよう。寝落ちた時には間違いなく、自分の寝室に居たはずだ。それが何故──起きたら金蝉と悟空の間に挟まれる、サンドイッチ状態になるのか。

「……どうなってんの?」

過保護を拗らせた相手の腕から逃れることも、背中に張りついたひっつき虫を追い払うこともできず。途方に暮れた寝起きの第一声は、虚しく静かな部屋に響く。

情緒不安定は認めるが、勝手に出歩く夢遊病患者ではない。フラフラと散歩はしても、ちゃんと目的があって歩いている。寝ている間に私を誘拐した犯人は、何の意味があってさらったのか。金蝉の隣に放り込んでいったくらいだから、きっと親切な相手に違いないだろうけれども。

悩んでいる時間は、そう長くはなかった。背中にひっついていた悟空がもぞりと動いて、目を覚ますかと思ったのも束の間。本能的に働いた危機意識の指示に従って、咄嗟にうつ伏せになる。

間を置かず、悟空の無邪気な足蹴りが金蝉の腹に直撃した。ダイナミックな寝相による渾身の一撃を食らった彼は、うめき声を漏らして身体を震わせる。

「あぶ……あぶなっ……」
「てめぇ!?朝っぱらから何しやがる!!」
「……んう?あ。采霞、金蝉。おはよ」
「おはよう、悟空。まず私の上から、降りようか」
「あ、わり」

ちゃんと挨拶するのは、良いことなんだけどさ。背中に悟空を張り付けたまま強引に寝返りを打ったせいで、近距離かつ強烈な目覚めの一発を食らうことになった金蝉に心の中で合掌する。

「びゃっ!?」

そうこうしているうちに、飛び道具よろしく振り抜かれた枕が悟空の顔面に叩きつけられて、背中に乗っていた身体がころんと転がった。寝起きにも関わらず、なんとも素早いことで。

「ざっけんな!!クソ猿!!」
「金蝉が避けないのが悪いんじゃん!!」
「ブッ殺す!!」
「ちょっと!?それ私の私物!!」

派手に応戦する二人の間に挟まれつつ、ボコボコと投げられて飛び交う枕と布団の攻撃を片手で払い落とす。やがて手の届く場所に投げるものがなくなって、ベッドサイドに置いてあったサイドランプを振りかぶった金蝉に横から飛びついて、慌てて制止をかける。

のんきに傍観してる場合じゃなかった。危うく粉々にされかけた私物をもぎ取って、深々と溜息を吐く。穏やかな朝になりそうだったのは、目覚めた時の気の所為だったかもしれない。



「これ。使っていい?」
「好きに使え」

寝起きの攻防戦で派手に荒れた寝室を悟空が片付けている間、キッチンに据えられた冷蔵庫を覗き込む。

「ねえ。なんで鶏ささみのパック?」
「手土産だと言っていた」
「は?……ああ、うん。生肉ぶら下げてくる馬鹿、二人しかいないだろうから。わざわざ言わなくても大丈夫」

そこは冗談であっても、自炊しようと思って買ったの一言くらい言って欲しかった。きっと冷蔵庫に鎮座している生肉を土産に持ってきたのは、いつも腰から酒瓶を提げている男の方だ。まったく非常識にも程がある。

酒のツマミを作らせる気だったのだろう。見え見えな魂胆に冷えた溜息を吐きながらも、ほぼ空の冷蔵庫に貴重な食材を増やしてくれたことには感謝しておく。

「今度トースター買いに行こうよ」
「要らんだろ」
「うちの隊。パン作り、流行ってるんだよね」
「お前らが毎朝パン生活に飽きたからって、こっちに残飯処理を押し付けるんじゃねえよ」
「無料なのに?今ならジャムもついてくるよ?」
「とりあえず。パン作りをやめろ」
「金蝉が悟空のために、三食毎回お米炊けるなら良いけど」
「なるほど、食費が現実的じゃないな」

ぽいぽいっと具材と調味料を放り込んで、土鍋の蓋を閉じる。悟空の手伝いは言わずもがな、ひとりだけリビングで待つつもりは無いと言わんばかりに、一番積極的に寝室を荒らしていたはずの張本人は、やることなんて何もないのにキッチンまで着いてきた。形だけの火の番を任せる隣で、置かれた桃へと手を伸ばす。

「あのさ……ごめんね」
「悟空の足蹴を真ん中に挟まれてたはずのお前だけ、綺麗に避けたことか。お陰様で人生最悪の目覚めだった」
「……そこじゃなくてさ」

桃の剥き方は、包丁の背で皮を撫でるといい。全体的に撫で終えたら、あとは切れ目を入れて左右に引っ張るだけで簡単に皮が剥ける。白い肌を晒した柔らかな実に包丁の刃を滑らせて切り分けながら、シャツの袖を折りあげてあらわになった右手首へと視線を移す。

寝ている間に貼られたらしい湿布は、昨夜の名残を覆い隠していた。たまに何もかもが嫌になって、あれもこれも投げ出しがちな私の気持ちをリセットさせるかのように、こうして身体の何処かにあからさまな痕がひとつだけ残される。

「昨日。イマイチよく覚えてないんだけど」
「いつも通り俺を抱き枕にして、爆睡してたぞ」
「抱き枕にしてたのは、金蝉の方でしょ」
「一人で寝れないと駄々こねたガキが居たからな」
「……わざと話ズラしてない?」
「さあな」

私が言いたいことなんて初めから理解しているはずなのに、のらりくらりと交わされて、気付けば聞きたかったはずのことを忘れている。

眉を下げて金蝉を見上げれば、しれっと横から伸ばされた手がくしゃりと髪を撫でて離れていった。金蝉童子という男は、得てして私に甘い。桃の果汁でべたべたになった手では払われることがないと判っているから、なんなら好き放題撫で回してくる。

「金蝉と采霞、ほんと仲良いよなー。そういうの夫婦って言うんだろ?」

不意に背中側から掛かった声に、二人揃って身を固める。何も無かったフリをして手を引っ込めた金蝉には悪いが、多分一部始終、悟空は見た後だと思う。

足音を立てて台所に駆け込んできた悟空に、ガラス皿に盛った切り分けたばかりの桃のひとつを差し出せば、はむっと指ごと持っていかれた。

「うーん。金蝉と私の関係は、夫婦じゃないかなぁ」
「え?ケン兄ちゃんが金蝉と采霞みたいなのを夫婦で、そこに俺を入れると家族だって言ってたけど。違うのか?」
「……後半は合ってるといえば、合ってるけど。前半は何一つ合ってないね。間違いだらけだね」

あの男。預かり知らぬところで、悟空に何を教えているんだ。昔から物事は正しく教えろと言っているのに、結局これだ。今度会ったら蹴っ飛ばして、文句言ってやる。菩薩に世話を押し付けられた金蝉はまだしも、私は完全なる部外者だ。というか、問題児が問題児を育ててどうする。

「ふざけんじゃねえ。こんなバカ息子、居てたまるか」
「良いじゃん。悟空くらい元気な子供なら、育て甲斐あるでしょう。お父さん?」
「誰が父親だ。冗談抜かすな」

背中にしがみついていた悟空が頭を掴まれて、手荒に引き剥がされていった。ぺいっと雑に追い払われた悟空を視界の端に捉えて、手を洗いながら相変わらず乱暴だなと苦笑する。

「じゃあ、俺が采霞もらう」
「はあ!?ふざけんな!!誰がテメェなんぞにやるか!!だいたい元々お前のモンじゃねえんだよ!!」
「やだ!!」
「岩から生まれたてのガキは黙ってろ!!」

思わぬ悟空の発言に間髪入れず、金蝉ががなり返す。ぐいぐいと金蝉の結ばれた髪を引っ張る悟空と、負けじと低い位置にある頭を掴む金蝉。言葉を交わして顔を合わす度キーキーと喧嘩しなきゃ気が済まないのか、この二人は。

「ああ、もう……朝から喧嘩やめて。近隣住民の迷惑でしょ。さっさと手洗って、食事準備を手伝う。これ以上騒ぐと、朝ご飯抜きになるけど?」

とりあえず。続きは朝食を食べてから、いくらでもしてくれ。自分のせいとはいえ、昨日の夜ご飯を食いっぱぐれたおかげで、そろそろエネルギー不足で倒れそうなのだ。

口煩い副官の叱り方が役に立った。にっこりと告げられた忠告に、そそくさと手を洗って食器を並べ始めた二人は、なんやかんや仲が良くやっているようで安心した。

夜毎世界は救われた

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