嫉妬の深海にもがき苦しんで [ 1/9 ]

ああ、もう。あの笑顔には会えないのか。そう思っても、どうしてだろうか。心の何処かではもう、諦めがきっちりとついているのだろうか。



いつものように練習に打ち込む俺たち青道高校野球部の前に、『やっほー』と軽くやってきたのは、三年のマネージャー、桐沢綾華先輩だった。美人の藤原先輩よりも庶民的な常に笑顔で親しみやすい彼女は、同級生からも勿論のこと、後輩からも慕われていた。そんな桐沢先輩が訪れたことで、みんな喜びを表している。沢村に至っては練習そっちのけで彼女の周りに向かっている。


「綾華先輩!今日は如何しやしたんですか!」
「ふとね、練習でも見に行ってみようかなと思ってね。ほら、沢村くん。練習戻らないとあの黒縁キャプテンがお怒りだよ」
「げっ、御幸一也!羨ましいからってそんな怒りを表すんじゃない!」


俺はそんな沢村を無視して、『ポール間ダッシュ始めるぞ!』と指示を出す。周りは少し困惑したような周りの反応に、俺もやっちまったな、と後悔する。いつもの沢村なんだ。いつものように軽く流せばいいのに、あしらえばいいのに、大人気ねえ。

理由は簡単だ。俺でさえも“桐沢先輩”呼びなのに、なぜ後輩の沢村が“綾華先輩”呼びなのかが気に入らない。しかも、桐沢先輩がいる前でそんなことをしてしまうなんて、マジで俺ねえわ。そう思いながらも基礎練を始める。沢村は練習に戻ってきた。

桐沢先輩が先程いた場所に視線を移せば、マネージャーの女子たちがいた。「綾華先輩!お久しぶりです!」「先輩いないから寂しいですよ」なんて言う声がこちらまでに聞こえてくる。そんな声に、嬉しそうな表情を見せる桐沢先輩に、本当に野球部の事が好き何だなと再確認して、俺まで嬉しくなっている。その好意が、俺だけに向けてくれたら。そんな風に思っているのは言うまでもない。

俺はずっと、入学してからずっと、先輩のことが好きだ。誰にも打ち明けたことはないが、気付いている者は多いだろう。しかし彼女は、どう頑張っても俺のものになることはない。彼女の特別な好意は俺に向けられることはない。

「ちゃーす!」と言う声が聞こえる。その声に反応するように、俺たちはそちらの方に視線を向ければ。そこには、『やってるな』と少し笑いながら言う、俺が憧れてやまなかった男の姿で。


「優も来たの?」


“優”
桐沢先輩の口から直接クリス先輩の名前を呼ぶ声を聞いたのは久しぶりだった。その口調からしても、先輩たちは上手く行っているのだろう。表情も、優しいものだった。それに嫉妬したのは言うまでもない。


「やっぱりここに来てたのか、綾華」


―――綾華
クリス先輩の口から桐沢先輩の名前を聞いたのも久しぶりだ。それほどまでに二人と会わなかったと言うことで、その二人と会わなかった時間も、二人は一緒にいたと言うことを自然と指していた。彼氏彼女という間柄なのだから、当たり前なのだ。当たり前。だけど、身勝手な嫉妬心が生まれる。


「うん、こういうむさ苦しい空気が不足したから、補給にね」
「むさ苦しい空気不足って何だ…」
「あるのよ、私には」


他愛もない話なのに、笑いあう二人。そんな二人を見て、後輩たちは『良いよなあ、クリス先輩』『羨ましい』何てもらしていて。それほどまでにあの二人からは尋常じゃないぐらいの幸せオーラが溢れてる。それは、苦しみを知って、乗り越えたからこそあるものだと俺たちは知っているから。

だからこそ、嫉妬してしまうのだ。何度もあの笑顔に救われた。あの笑顔に癒された。好きで仕方がなかったあの笑顔は、もうクリス先輩のものだ。クリス先輩が、今日俺が見た先輩の笑顔で一番を引き出したのかと思ったらやっぱり面白くないし、腹が立つ。

どんな方法でも、彼女を手に入れたい。そう思うこともあった。狂愛じみた何かが、俺の中に生まれていた。完璧に悪役に回ればいいのに、回れない。それは、先輩の笑顔が好きだからで。


「御幸くん!後で話したいことあるの!」
「…わかりました」


屈託のない、彼女の笑顔に浄化されるのだ。
俺は大好きな人の笑顔を奪う気になんてなれなかった。


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