記憶を無くしました 「………どこ、ここ…」 ウチにあるベッドに比べたらまだまだだが、それでもふかふかのベッド。四方八方見渡せば広い空間に品のあるものばかり囲まれている。この配置は良く見慣れている。きっとここは、ホテルのスイートルームだろう。そこまではなんとなく理解できた。けれど、…私、ホテルなんかに泊まったっけ。チェックインしたっけ。記憶を辿っても、そんな記憶はない。 そしてやけに肌寒いな、と思い身を起こそうとすれば、布団に擦れるはずのストッキングの感覚がない。更に言えば、昨日はタイトスカートを穿いていた。太腿に纏うはずのあのピタっとした感覚もない。恐る恐る我が身を見てみれば、下着の上に一枚男物のカッターシャツと思われる物を着させられているだけで。……どういうこと、私の服は?それよりも、何なの、この状態。まったく意味が分からないんだけど。 私はまだ寝ぼけていて回らない頭を一生懸命にフル回転させて昨日のことを思い出そうとする。すると、ガチャリと音を立ててバスルームであろうところから誰かが出てくる音がする。私は反射的にそちらの方を向く。すると、 「起きたか」 そこには見覚えのある顔があった。奴は備え付けであったのだろうバスローブを胸元を肌蹴させて着ている。……それでも奴は見栄えだけはいいために似合ってしまうから何とも言えないのが悔しいが、まず聞きたい。 「…何で跡部の御曹司がここにいるの」 何で私が奴と一緒にいるのかを。 「アーン?何でって、決まってるだろう。ここは俺様が取った部屋だからな」 「なら質問を変えるわ。何であなたが取った部屋に私がいるの」 「……昨日の記憶ないのか?」 眉間に皺を寄せている奴に、私は何も言い返せない。何たる屈辱だ。恥ずかしながら、記憶がないのだ。何のためにあんな高いバーで飲んだのかが分からない。昔馴染みのバーだから少々…いや、酷く悪酔いしたからと言って、どこかに投げられる事はないと思って奮発して行ったというのに。もう絶対に行かない。あのマスター酷いよ。そう思いながらも、『だから聞いてるんでしょ?!』と逆切れして問いただす。 すると、 「桐沢の令嬢は礼儀も知らねえのか」 と目を細めて、私の顎をクイっと上げる。長くて細い、それでも男特有のゴツゴツとした、綺麗な指で私に触れる。そして、私をまるで射抜くかように見る。 「っ、何するのよ……っ?!」 パシンと音を立てて、私は奴の手を叩く。…正確には、叩こうとした。その手を奴はもう片方の手で止める。反射神経が良いのは知っていた。確か、中学時代はテニス部に所属して全国大会も行ったことがあるって何かのパーティで誰かが噂をしていたのを聞いたことがある。…でもこんなにもあっさりと捕まるなんて思ってもみなかった。 「…っ離して!」 「まるでじゃじゃ馬だな、綾華ちゃんよ」 「気安く名前で呼ばないで!」 嫌なのよ。もう、桐沢のお嬢様で見られるのは。なのに、何で跡部の御曹司がここにいるのよ。跡部と言えば、ウチに並ぶ財閥だ。……ふざけないでよ。何でよりによってこの人とホテルにいるのよ。昨日の自分を悔やんだ。何であんなに飲んでしまったんだろう。 「…っ私に近付いたってあなたには何も得なんてないはずよ。なのに――」 「得?あるに決まってんだろ?」 「はあ?」 「昨日だって、何のために飲ましたと思うんだよ」 『何のために飲ました』…この言葉は理解し難いものがある。確かに私は一人で飲んだ。飲ました、というのは私には記憶にない。理解できません、と言うような私の表情に、跡部の御曹司は眉間に皺を寄せる。…そんな顔されたって、分からないんだから仕方ないでしょ。そう思っていれば、 「キス・イン・ザ・ダーク」 「は?」 「この意味、知ってて飲んだんだろう?アーン?」 キス・イン・ザ・ダーク。 聞いたことはある。確か、カクテルの名前だ。……だけど、全く繋がらない。昨日、何があったって言うの。私はぐるぐると考えていた。 「…あ」 何となく、ボヤボヤと。思いだしてきたような気がした。 昨日は仕事でミスをしてしまった。ミスは許されない仕事と分かっていたのに、やらかしてしまったのだ。部長には『やっぱり社長の娘だから甘えてんだね』と言われてしまった。きっとそれは、私を信用して任せてくれていたからこそ出てきた言葉。その信用を裏切ってしまったからそう言われてしまったんだ。いいように解釈したら、そうだろう。けれど私はどうしても怒りを鎮めることはできない。 やっと、やっと信用してもらえて任せてもらえた仕事。私は私なりに精いっぱい責任感を持って社長の娘だからって有能だとは限らないじゃない。私は私。桐沢綾華っていう、一人の人間なの。 それで、むしゃくしゃしたから、強めのお酒を飲んで忘れようとして……。 『綾華ちゃんどうしたんだい?今日は一段と荒れてるね』 『荒れてるも何ももう嫌、人生辞めたい』 『どうしたんだい』 『私は私じゃなくったっていいのよ』 『え?』 『みんな、私を桐沢家の令嬢としか見ないのよ。私は桐沢の令嬢だけど、それだけじゃない。桐沢綾華なのに…!挙句、婚約とかいう話も出てきて…っこんな人生、もう嫌!うんざりよ!』 『向こうのお客様からの差し入れだよ。“いいなら”飲めって』 『ふうん、―――いい色ね』 『いや、綾華ちゃん。このカクテルは―――』 『説明はいいわ。もう何でもいいわよ。どうとにでもなればいい』 『いやいや、綾華ちゃんあんまり強くないんだから、ほどほどに…』 『いいの!もう私のことなんて放っておいて!』 何かも知らずに私はそれを一気飲みして。 クラリ、としたのが最後。 酒で忘れようとして、ずっと飲み続けていたから、当然何を、なんて考えていなかった。ああ、もしかして。これが、彼の言っている“意味”だ。 「思い出したようだな」 「…っ、不可抗力よ!」 「飲んだのは事実だ」 キス・イン・ザ・ダーク。直訳すれば、暗闇の中でのキス。これが意味する先のこと、今、現実に起こってる。…迂闊だった。こんなこと、お父様たちに知られたら。私は本当に閉じ込められてしまう。 その後先を考えると、冷や汗が流れて来る。…私、どうしたらいい?考えても考えても、いい案なんてない。なんて私はバカなんだろう。私は、彼のことも忘れて、静かに涙を落とす。布団の上にポタポタと。大きな染みが出来る。それに気付いたのか、 「何で泣くんだ、そんなに俺様が不満か?アーン?」 「…っ不満とか、そんな次元の話じゃないわよ!」 「なら何だ」 「…っ不甲斐ないのよ!」 「は?」 「…っこんなこと知られたら、お父様に恥をかかせてしまうわ…っ」 私がしてしまったことは、それほどのことなのだ。今までもらっていた、私からしたらわずかだった自由も、私を信用していてくれたからこそ与えてくれていたものだったと言うのも、私にはわかっていた。なのにだ。その信用を裏切るようなことをしてしまった私は、許していただけるのだろうか。そんな考えがぐるぐると頭を回ってる。 そんなことを知ってか知らずか、跡部の御曹司は高笑いしながら私が寝ていたベッドに座る。何なのこの人、なんて思いながらも、『テメェは本当に飽きねえぜ!』なんて言いながら高笑いを続ける。 「誰がもう手を出したって言った」 「…え?」 「生憎俺様には酔っ払いを相手にするほど女に困ってねえ」 ……癪に障る言い方だったけれど。つまり、と言うことは…。まだ私は手を出されていないし、奴と関係を持ったってわけじゃないってこと?!そういう結論に達した時にはヘナヘナ、とベッドに再び横になっていた。 「よ…っよかったあ…」 顔を両手で覆う。ああもう、本当に良かったと思った。寿命が10年ほど縮まった。心臓が止まるかと思った。私は安堵した。すると、『まだ安心するのは早いんじゃねえの?アーン?』なんて声がした。それと同時に、私の首元が少し沈むような感覚に陥る。 ん?と思い、覆った手を退かせてみれば、壁ドンならぬ、ベッドドンになっていて。…ちょっと、ちょっと待とうよ。そう思ったのは今でもない。今、ようやく私の中で問題が解決したばかりなんだ。少し落ち着かせてよ。そんなことも言えない空気が奴から放たれている。 な、何なの、何なの……っ! 広いキングサイズの上、私が後ずさっていてもどんどんどんどん距離を詰めていく奴。何なの、何なの!私は、 「おっ、落ち着きましょうよ!今、女には困ってないって…」 「それは、酔っ払いに関してだけだ。俺様は狙った獲物は逃がさねえ」 「っ………っ、わ!」 その言葉と同時にもう後ろに下がれなくなって、ベッドから落ちそうになった私を片手で軽々と抱き抱え、それと同時に、 「…っ!ちょっ、……っふ、」 キスされた。なんとか離そうと抵抗しているものの、男女の力の差と言うものはここまでも違うのかと思う。何なの、この横暴で強引すぎるキスに、私は抵抗できなかった。それは―――。 ようやく離された唇。私は、ついていくので精一杯だったためか、息を荒くしていた。奴はなんてことない顔で、『ようやく大人しくなったな』と満足げな顔をしていた。これがいつも体を鍛えまくっている差か、なんて思いながら、肯定も否定もしなかった。 「ほら、綾華。早くしろ」 「…っ、え?」 「これから婚約披露パーティだぜ?」 指を差した場所には、ドレスや靴、貴金属、などの物が置かれていて。 ああ、もう、とうの昔から仕組まれたことだったんだと。私はもう諦めた。それと同時に、わくわくするのはどうしてだろう。この横暴で強引な王様の次なる要求に、私は胸を躍らせている。 きっともう、お酒で失敗はしないだろう。 彼の監視下の元、きっと。 幸せな未来が待っているのだろうから。 |