嫌な夢をみた。 曇り空だった。絵の具で塗りつぶしたような鼠色がやけに印象的で、太陽は見当たらないのだが何も見えないというわけではないからして、太陽がないわけではないのだろう。 ひとりだった。ひとりぼっちで、どこかの建物の前に立っていた。建物というより、元建物の方がよいのかもしれない。崩れ落ちた残骸、残骸。 ぼろぼろになってしまった学校。俺はなんの思い入れもないのだけど、何故だかその残骸たちが十年も百年も元に戻ることもなく、撤去されることもなく、ただただ永遠に残骸達であり続けるような気がして、一種の感傷に似た痛みを感じた。 何時ぞやの、友達と遊んだ積み木たちのように。尤も、その積み木はカラーボックスにしまわれたのだが。あの積み木はどうしただろう。たった数年前までは手にしていたのはずなのだが、その感覚が遠い気がした。 暗い暗い空に、ガラクタの山、そして、ぼうっと立っている俺。なんというか、ミスマッチだったんだと思う。 「ねえ」 高い声。反射的に振り向くと、あの厚い雲はどこへやら、目が眩む様な青空が眼前に広がって、思わず顔を顰める。眩しさに目が潤って、薄目を開いて見た世界には、誰かがいた。 ――女の子だ。 それはわかった。丸みを帯びた肩と、首もとのリボンにプリーツスカート。だけれども、逆光のせいで暗く影が落ちていて顔がわからない。 「君はだあれ?」 なるべく優しい声を出したつもりだった。彼女の真後ろの光源のせいで、彼女の体を縁取る線がぎらぎらと目に痛い。なんだかそれが彼女を人間らしからぬものに見せていて、ある種の恐ろしさを感じていた。 これといって俺が何かしたわけではないはずだったが、何故か逆らえない気がした。畏怖の念っていうのかな、これ。 女の子は何も答えなかった。ただ、その右腕がすっと上がって、人差し指が俺のほうを向く。俺を指差して彼女はなにか呟いた。なんだかはわからない。 ただ、全身の毛穴から汗が吹き出る嫌な感覚に襲われた。恐ろしいものが俺の目の前にいるんだと思った。これは人じゃない、女の子じゃない、俺は恐ろしくなって彼女と反対方向に駆け出した。 たぶん、それがよくなかった。 振り向いた先、曇り空の下に、人、ひと、ヒト。瓦礫の前に立ちはだかるたくさんの人間が、俺を指差していた。顔はわからない。顔など、見れなかった。眩暈がした。ぐらりと視界が歪んで、無数の人差し指がこっちを向いているという画面だけが目に焼きつく。 あの中には多分、バンダナをつけたゴールキーパーや、炎のストライカーなんかが、混ざっているのだろう。意識が遠くなるところで、なんとなく、そう思った。 意識が浮上する。 額に手を添えると、手が恐ろしいほどに冷たく感じられた。体中から汗が出ているようだった。まだ頭が揺さぶられて回転しているような感覚が残っていて、目を閉じた。 ――いったい、なんだったのだろう。 気味が悪い。なんだか吐き気まで催しそうだった。時計を見るとまだ六時を回っていなかった。いつもならもう一眠りしようかと思うところだが、そんな気にはなれなかった。瞳を閉じれば、あの女の子がゆらゆらと浮かび上がってくるような気がして。重たい身体を起こして、せっせと着替えを始めた。 外はまだ寒く、空もぼんやりと暗い。パステルカラーの世界が眼前に広がっている。空気は澄んでいて、気持ちがよかった。フェンスの向こう側には誰もいないコート。風が吹いて木々が揺れて、さわさわと音を立てている。ふらふらとコンクリートの道を歩きながらコートを眺めると、なぜだか初めて見る景色のように感じられた。 ――いつも、俺達はあの中で練習してるのか。 思っていたよりも、狭く感じた。 朝もやの気持ちよさに夢の事など忘れていた。頭はもう既に今日の練習のことで埋められはじめていた。 その時、だった。 「ねえ」 頭から水を被ったような衝撃だった。冷水を被るだけの方がよっぽどマシだったかもしれない。じんわりと手が湿る。このデジャヴは、なんだろう。振り返りたくはなかった。でも、そうしなければならないみたいに体が勝手にくるりと向きを変えて、声の方を向いていた。ロボットみたいだなって思った。 そこには、制服姿の女の子が立っていた。 「き、きみは、だあれ」 声が震える。知っている。この感覚は嫌というほど知っている。そして俺は、この少女のことを、知っている。夢の中だけじゃない、記憶が蘇る。 ――ねえ基山君、私の学校にも宇宙人がきたら、壊されちゃうのかな ――大丈夫だよ ――でも、怖いよ ――そのときは俺が守ってあげるよ、だから大丈夫 不安そうに俺をじっと見る目も、その直前の会話も、その数日後の惨劇も、覚えている。俺は知っている。なのになぜ、君の事を思い出せなかったのだろう。いや、思い出せなかったのではなく、思い出したくなかったのか。俺は俺自身を、押し込めていたのか。 彼女の学校が襲われて、壊されて、ぼろぼろになって、ぐちゃぐちゃになって、逃げ遅れた人もいると、そう聞いていた。襲わせたのは俺たちだというのに、遠い世界のことのように思えた。 「ねえ、どうして、わたしを、見捨てたの」 「基山君、基山君、私、基山君のこと、呪ってしまいそうだよ」 「基山君、基山君なんて、死んじゃえ」 彼女の唇が動くたびに、頭の中がずしりと重くなっていく。君との思い出が、俺の中に呼び起こされていく。彼女の笑顔も、下敷になった彼女も、短い間だったけれども、確かにそこに俺と彼女がいたと思い知らされる。そしてそれを俺が壊したと、そう思い知らされる。 俺は顔を見ることができずに、足元に目を向ける。そうして俺は透明な彼女の足を見てぼんやりと、ああ美しいなと思ったのだった。 「どうして、助けてくれなかったの」 そうして彼女の唇はやっと動きを止めたのだった。 執筆/爽 |