たまにとても大切なことを俺は忘れいるんじゃないかという焦燥感に駆られることがある。結局思い出せないまま、そんな焦燥感すらまた忘れてしまうんだけど。


記憶の海に溺れる


 目を開けると部屋はまだ暗いままだった。ベッドのサイドテーブルに置かれた時計の針は午前四時を指していた。今日は俺もサイファーも午前中に講義がない。そう知った奴は嬉々として消灯前に俺の部屋を訪れた。来るだろうとは思ってた、目的なんてただひとつ。俺をベッドに組み敷いてそのまま…つまり……。

「う、わあ…」

 己の恥態を思い出して顔が熱くなる。何度やっても慣れるわけなんてない。隣に眠るこの男は毎回俺の骨の髄まで溶かすようにそういう行為に及ぶ。怖いくらいの快楽を与えられて訳が分からないまま俺は何度も名を呼ぶ。

「…サイファー」

 返事がほしかったわけじゃなくて、ただ呼びたくなった。考えてみればサイファーは俺より先に寝ることも、俺より後に起きることもしないから、こうして寝顔をしっかり見るのは初めてかもしれない。腰の鈍い痛みに耐えながら上半身を起こしてサイファーの顔を見つめた。黙っていれば綺麗な顔立ちなんだから相当モテるだろうに、その傲慢さ、横暴さからガーデンでは嫌煙されがちだ。

「サイファー、」

 もう一度、はっきりその名を口にする。目を覚ましてほしいような、けれど寝ていてほしいような、自分では説明できない感情が心の中に広がった。サイファーの閉じられた翠色の瞳が、うっすらと開く。

「ワリ、起こしちまったな」
「…何だ」
「え?」

 寝起き特有の掠れた声がすげぇ色っぽくて、俺は思わず生唾を飲み込んだ。

「名前…呼んだだろ」
「あ、いや…その、ごめん。何でもねぇんだ…ごめん」

 今さら罪悪感が俺を襲う。誰だって理由もなくこんな時間に起こされるのは嫌に決まってる。サイファーは時刻を確認して不機嫌そうに眉を顰めたけど、俺の顔を見て苦笑った。

「ンな顔すんなよ。悪態もつけやしねぇ」

 どうやら俺は相当情けない顔をしていたらしい。何も身に付けていない上半身が肌寒く感じて、いそいそとベッドに潜り込んだ。

「こんな早くに目が覚めたってことはあれか?淫乱なチキンちゃんは昨日のじゃ満足できなかったってわけか」
「ち、違う!そんなんじゃねぇッ!」

 満足できなかったどころか、もういっぱいいっぱいで最後の方は記憶すら曖昧だというのに。即答で否定するとサイファーは意地の悪い笑みを浮かべた。

「だよなあ?女みてぇに喘いでよがって、あんだけ気持ち良さそうにしてたんだから満足してないわけがねぇ」
「ああもう言うなよ!!」
「っとに食い千切られるかと思ったぜ?テメェ、とことん貪欲なカラダしてるよな」

 羞恥から涙が滲んでくる。泣いてるなんてバレたらまたからかわれるに違いないから俺は枕に顔を埋めた。恥ずかしい、サイファーが言ってることは全部真実だから尚更。ふわり、と、温かい掌が俺の髪を撫でた。

「ゼル」

 普段のこいつからは考えられないほど甘い声で名前を呼ばれる、俺はこの声に弱い。臥せていた顔を横に向けるとサイファーは親指で俺の目尻を拭った。

「泣き虫ゼル」

 馬鹿にしたようなセリフなのに、それは優しい声色で紡がれた。サイファーは俺の頬のタトゥーに何度も唇を寄せた。"泣き虫ゼル"、何だかとても懐かしい気がした。けれど今まで誰かに言われた覚えがない。バラムでは暴れん坊の悪ガキとして名を馳せていたから、泣き虫なんて言われることはなかったはずだ。それでも何かが引っ掛かる、大切なことを忘れているような、もどかしい感覚。

「まだ寝てろ、起きるには早すぎだ」
「…うん」

 サイファーは最後に瞼に口付けると、俺をそっと抱き寄せた。これ以上思い出そうとしても人肌の心地好さに思考が微睡んでしまって無理だった。眠気に抗うことなく意識を手放そうとする。その直前に石造りの家と金髪の少年の顔が頭の中で朧気に浮かんだけど、一体何なのか理解する前に俺はもう一度眠りに就いたのだった。




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