「俺と付き合ってみる?」
ものすごく軽い調子で冗談みたいに告白されて、次の瞬間には不動の頬に思いきり平手打ちを食らわせていた。そうして顔も見ないまま逃げるように走り去ってみて、私はやっと自分が泣いていることに気づいたんだった。何の涙なのか分からないまま、平手打ちした右の掌がジンジンと痛んだ。
私は恋をしたことがある。まるで人生を変えるような恋を。愛し愛されて幸せだった、世界で一番私は幸せな人間だと思うほど。けれどそれは所詮幻想に過ぎなかった。簡単に言えば、私は大好きだった人に裏切られた。たったそれだけのことだけど、まだ恋に恋してた私はそれなりに傷ついて。だから今でも恋する気持ちが怖いし、みんなの言う「好き」が信用できない。恋する乙女は一瞬にして、恋に臆病な可愛くない女になっちゃったってわけ。
「何で泣いたんだ、あの時」
不動とこうしてちゃんと話すのは真・帝国以来。世界を体験して帰ってきた不動は、人として大きくなっている感じがした。
「あの時って?」
分かってるのにしらばっくれてみれば、不動はそっぽ向いたまま答える。
「…俺が告白した時」
「さあ、忘れたわよ」
夕暮れ色の空に白い息が立ち上っていく。今日も寒いな、と思いながらポケットの中のカイロをぎゅっと握った。
「俺、人に愛されたことねぇから、人を本気で愛したこともねぇんだけど」
いつにも増して饒舌な不動は、私の顔を見ようとしない。無機質なコンテナが並ぶつまらない港に呼び出しといて失礼な男ね。ただ、ここから見える夕日は嫌いじゃない。
「小鳥遊とはいつまでも一緒にいられる気がする」
「ははっ、何それ?」
一緒にいられるなんて言いながら帝国の生徒になっちゃったくせに。勝手に遠くに行ったくせに。
「俺今日、お前に告白しに来たんだよ」
そこでやっと、不動が私を見た。寒さで赤くなった鼻の頭が少しだけ笑える。
「小鳥遊が好きだから、本気で、お前を幸せにしたい」
人からの好意が怖くて、私は思わず目を逸らした。信じられない、口ではどうとだって言えるじゃない。それでもその言葉を、信じたいと思う自分がいるのも事実。私は握り締めていたカイロを不動の顔に投げつけた。
「ぶッ、何すんだよ!」
「春休み、今度は私が会いに行くから。返事はそれまでお預けってことで」
そう言って私はあの時と同じく逃げるように背を向けた。そのまま無言で歩き出す、さよならを言いたくはなかった。
「じゃあ、待ってる」
不動の声が聞こえた。その声に目頭が熱くなる。泣きそうになってるのは、どうしてだろう。カイロを握ってない指先が少しずつ温もりを失っていく。夕日を反射してキラキラと光る海は、いつ見たってきれい。風にさらされて冷えきった頬をぬるい涙が伝った。私はまた、涙の理由を探してる。
title:自慰