これは夢だってすぐに分かった。俺は雷門中の廊下に立っていた。どういう夢なんだろう、周りには誰もいなくて、窓の外は薄暗い。怖い夢はあんまり好きじゃないんだけど。廊下を進んで行くと段々ピアノの音が聴こえてきた。この突き当たりは音楽室だ。誰が弾いてるのか気になった俺は既に走り出していた。今は「廊下を走らない!」って煩い先生もいないから。ドアの前まで来ると、はっきりピアノの音がした。途中で弾き直したりしてるから自動演奏じゃないみたいだ。ノックしようとして、せずにドアを静かに開けた。ここからじゃ弾いてる人の顔は見えなかった。できるだけ音を立てないようにドアを閉め、俺はゆっくりピアノに近付いた。

「何だ、アフロディか」
「っ!…びっくり、した。円堂くんじゃないか」

 どうしてお前がここにいるんだって聞こうとして、そういえばこれは夢だったことを思い出した。

「何の曲を弾いてるんだ?」
「ベートーヴェンの『さらばピアノよ』だよ」

 知らない曲だ、ベートーベンは知ってるけど曲名はひとつも分からない。ピアノなんてあんまり触ったことさえない。

「アフロディは、」
「照美。僕の名前は照美だよ」
「…てるみは何でもできてすごいんだな」

 てるみはただ苦笑うだけだった。どうしてそんな顔をするんだろう。サッカーも上手くてピアノまで弾けて、俺はとてもすごいことだと思うのに。

「何でもできるわけじゃない、全部中途半端さ。サッカーは薬の力を借りていたし。ピアノもほら、この曲のここ」

 てるみは音符の並ぶ楽譜の一ヵ所を指し示した。楽譜を読めない俺には、下から数えないと何の音なのか判断できない。

「この小節から変調するんだけど、…ほら、フラットが四つ付いてるだろう?ここからが上手くいかないんだ」

 そう言って、てるみは鍵盤に手を滑らせた。細くて白い指がするすると綺麗な音を紡いでいく。だけど突然その指が止まった。

「…ここ、いつもここで間違う。半音下を弾いちゃうんだ」
「一つくらい間違えたっていいんじゃないか?」

 俺にはどこの音が違ったかなんてまったく聴き取れなかったし、十分綺麗だったのに。てるみはあまりいい顔をしなかった。

「僕は完璧じゃないといけないんだよ、神様だからね」
「てるみは神様なんかじゃないだろ?」
「神様だよ」

 冗談で言っているような雰囲気はない、その目は本気だった。

「神様にどれだけ祈っても強くなれなかった、努力しても報われなかった。神様なんていない。だから僕が、僕自身が神様になればいいだろう?」

 それは"仕方なく"っていう風に聞こえた。てるみは"仕方なく"神様を演じてるのかもしれない。

「もしかして、神様になりたくなかったのか?」

 救われたいのに救われない、どうして神様はこうも不平等なんだろう。どうしてみんな同じように、幸せにしてくれないんだろう。

「だって僕は、神様じゃないからね、ほんとうは」

 てるみは泣き出しそうな顔で笑った。あ、抱き締めたい。そう思って手を伸ばす、


 目が覚めて、夢を見たことは覚えているけど内容は何も思い出せない。ただなぜか、俺は泣いていた。アジア予選、決勝の朝のことだ。




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