小説 | ナノ


  確かなものなど何も無いけれど



名前と渡久地が出会って早数カ月。
お互いに、それなりに相手と仲良くなったのでは、と思い始めていたころの事。


『お待たせしました。ウォッカです』


「おー」


「ウィスキー」


『またですか渡久地さん…好きなんですね』


今日も店にやってきた客人たちに酒を提供する名前。
渡久地もカウンター席に座って、すでに出されたウィスキーを傾けていた。
そんな中、彼らの傍に座っていた常連の一人が口を開く。


「名前ちゃんも渡久地も、他人行儀だなあ」


『え?』


「俺はちゃんと名前で呼んでる」


常連の言葉に首をかしげる名前と、少々不満そうな声色でそう口にする渡久地。
渡久地の声色に苦笑を浮かべた常連は、出されたウォッカをくるくると揺らしながら尋ねる。


「そういや名前ちゃん、渡久地の事だけじゃなくて、ほとんどのやつを名字で呼んでるじゃないか。何か理由があるのかい?」


『…いえ、そういうわけでは』


そう言いよどんだ名前に、「まあいいじゃねーの、」と渡久地が助け舟を出してくれる。
少々不服そうな顔をした常連に申し訳なさを感じつつも、名前は素直にその助け舟に飛び乗った。
それきりその話題は切れ、別の話題に。
刻々と過ぎていく時間はだいぶ遅くなり、一人、また一人と客はまた来るなどと一言残して帰っていき、ついには渡久地一人になった。
いつも遅くまで残ってるよなあ、なんてぼんやり考えながら、名前は使用されたグラスなどを片付けたりと、次々と仕事をこなしていく。
そんな彼女を見やっていた渡久地は、テーブルに頬杖をつきながら尋ねた。


「なんで名前で呼ばねーの?」


『…名前で呼び合うほど親しくなりましたか?』


渡久地の言葉に、少々苦しい言い訳をした名前は自分でもそれをわかっているのか、渡久地と目を合わせようとしない。
それを見逃すような男ではなく、にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら答える。


「そりゃあな。どっちかの家に行って一緒に寝たらもう親しいんじゃねえの?」


『あ、れは不可抗力です…!』


渡久地の言葉に思わず落としてしまいそうになったグラスを何とかつかみ、躓きながらもなんとか言葉を紡いだ名前。
他の客には決して見せないそのわずかな反応にも敏感に気付いた渡久地は、自分を見ようとしない名前の顎に指をひっかけて自分のほうに顔を向けた。


「あんたが、俺にしかそういう表情を見せないって時点で、俺は結構うぬぼれてたんだがなあ?」


『!』


ぐ、と詰まった名前に対し、今度は真剣な表情を浮かべた渡久地。
さっきまでにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた男が、そんな顔をすれば、恐ろしいくらい整った顔はその美しさをより一層引き立てて。
別に顔で選り好みをしているつもりはないけれど、こういう真摯な瞳には酷く弱い気がする、と独りごちた。


「どうなんだ。俺だけなのか?それとも、」


他の奴にも、そんな表情を見せてんのか


渡久地の低くて甘い声は、広い店内に響き、名前の耳を甘く溶かす。
異性とそう交流したわけではない名前は、そんな渡久地の行動にさえ耐性がなくて。
ほんのりを頬を染め、せめて視線をずらそうと名前の視線が宙をさまよう。


『…渡久地さんに、だけ……』


情けないくらいか細かったが、2人の距離が近いためにその澄んだ声は聞き逃されることなく渡久地の耳に届いた。
はっきりと自分の言葉にしたためにさらに羞恥が増したのか、名前はさらに顔を赤くし、目を潤ませた。
ああもう、あと少しで泣いてしまいそうだ。


「…いいな、その表情」


『!?』


ちゅう、と目に溜まった涙を吸い取るように口づけた渡久地から離れようとした名前だったが、両頬をがっちりと掴まれているためにそれは叶わない。
ぐいぐいと渡久地の腕を外そうと躍起になれば、渡久地は外されまいと腕に力を込める。
そんな力任せな問答が暫く続いていたが、ふと、思いついたように渡久地が声を上げる。


「外してやろうか?」


『(なんでそんな上から目線…まぁいいか…)…お願いします』


「いいぜ?ただし」


俺のこと、名前で呼んだらな


そう条件を出したと口に、ぽかん、とする名前。
どうして渡久地がそんな条件を出したのかわかっていないのだろう。
珍しく表情に出ている名前に小さく笑った渡久地は、口を開いた。


「…いつまでもそのままって訳にはいかねーだろ」


『、ぇ』


「万人を信じろなんて言わねーよ。そんなのは不可能なんてことは俺も重々知ってっから」


でも、


「一人くらい、俺のことぐらい信じろよ」


信じろ、だなんて本当は口にするようなことじゃないなんてことは知っているのだろう。
でも、彼女の場合はそれさえも口にしなければ続かないのだ。
これから先に進んでいくには、彼女は傷つきすぎていて、それ故に臆病になってしまっていて。
直そうと思って直せるものならばとっくに直せているものとは違い、名前の人間不信はそうたやすいものではない。
そして何より、彼女には”自分が他人を拒絶している自覚”がない。
だから、誰かがそれを示して、彼女の信頼を勝ち得ることからすべてが始まる。


「断言してやる。俺はぜってー居なくなったりしねえ」


『、』


「俺がどっかに行くときは、お前も一緒に連れてってやる」


これから先の、未来の事なんて誰にも分らないのに。
まるですべてがわかっているかのような笑みを浮かべて笑った男に、女は目を見開いた。
勿論女もわかっている。
未来が、この男の言うとおりにならない可能性があることも、この男が自分を裏切る可能性が、まったくのゼロでもないということも。
所詮人の心など、揺れ動いて決してとどまることのない、有限のものであるということも。
それでも、今はただ


『…東亜、さん』


信じてみよう


漠然と、そう思った。



(さん、とれ)
(…名前呼びになっただけ多大な進歩だと思ってください)
(外さねーぞー)
((ぐっ…汚い…))
(それが大人ってもんだ)
(……(なんか違う))
(ほら、早く)
(…と、とう、あ)
((可愛い…!))


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