滅び行く世界
「会わせたい奴が居るから帰っておいで」
そういわれるままに帰国した私が出逢ったのは、金髪の酷く端整な顔つきの男だった。
「会わせたい子が居るから店に来な」
そういわれて店に来た俺が出逢ったのは、黒髪で人形みたいに綺麗な女だった。
『…初めまして、苗字名前です』
「渡久地東亜」
ビッグママのバー。
まだ開店時間の前だというのに現れた渡久地は、ビッグママに言われるままに来たのだという。
養母が呼んだのならば問題ないと判断した名前は、渡久地を気にかけることなく着々と開店準備を進める。
対して渡久地はそんな彼女をじっと観察し続けていたが、少々居ずらそうな表情を浮かべた名前が逃げるように奥に引っ込むのと入れ違いに現れたビッグママに口を開いた。
「人形みたいな奴だな」
殆ど感情の起伏がない、と静かな声がバーの中に響く。
奥に引っ込んだ名前には扉を隔てているので自分たちの話し声は聞こえないだろう。
ビッグママは小さくため息をついて、少し悲しそうな表情で扉を一瞥した。
「人間不信なんだよ、あの子」
「、成る程」
「私とテレンスとかの一部には普通なんだけれどね…それ以外の奴にはまるっきり駄目さ」
「テレンス?」
「あの子に護身術を叩き込んだ米軍のヤツだよ。あの子の両親が生きてた頃からの付き合いだからねぇ。テレンス達も変わらず接してくれたから、大丈夫だったんだろうよ」
ふうん、と頬杖を付いた渡久地の前にウィスキーを出す。
それを当たり前のように口に運んだ彼は、ビッグママに視線を向けず、どこか宙を見たまま口を開いた。
「…両親、死んだのか」
「あの子が五歳のときに交通事故でね。本当は親戚に引き取られるはずだったんだけれど、あの子の父親が医者で遺産があったから…その遺産目当ての争いを目の前で見てしまったらしくてね…ぼろぼろ泣きながら私のところに転がり込んできたんだよ」
あの争いは醜かった、とビッグママは目を細める。
お金の問題だから少しの言い争いはあるだろうと予想はしていた名前の想像を遥かに超えていた。
ビッグママが名前を引き取ると親戚らに宣言したが、そのときも酷いものだった。
毎日のように繰り返される電話、手紙に綴られている罵声、侮辱の言葉。
結局遺産の半分を親戚らに渡すということで決着した頃には、すっかり名前は肉体的にも精神的にも憔悴してしまっていて。
まだ小学校にさえ通い始めていない名前は強すぎる精神的ストレスを癒すことが出来ず、今まで人間不信のまま成長してしまったのだ。
「今は?」
「父親の面影を追いかけるようにドイツに行って医師免許取得したよ。今は私が帰って来いって言ったから、帰って来てるけどね」
「…俺に会わせるためにか」
「そうだよ」
そうきっぱり言ってのけたビッグママに、グラスを揺らしていた渡久地の口角が吊り上る。
ワンナウトで相手を蹴落とす渡久地の笑うとはまた違うその瞳はどこかギラついていて。
名前の感情の感じられない、冷めた瞳とは正反対のそれに笑ったビッグママにグラスの中身を飲み干した渡久地は立ち上がって扉へと向かう。
「返せって言われても、返さねえよ?」
まるで小動物を狙う肉食獣だ。
今まで見たことのないような欲をギラつかせたその目でビッグママを一瞥した渡久地は、そのまま外へと出て行った。
「…人選ミスだったかねぇ」
『何が?』
ポツリと呟いたビッグママの後ろで開いた扉。
そこから出てきた名前は彼女の呟きに首を傾げつつ、真っ白なテーブル拭きを片手にカウンターを拭き始める。
すっかり手馴れたその様子に笑みを浮かべたビッグママは、目の前で揺れる義娘の艶やかな黒髪を撫でた。
『、?』
「身を任せることも必要だよ、名前」
何のことか分からない名前が再び首を傾げ、それに笑みを浮かべるビッグママ。
これから自分に変化が訪れることなど知らぬ名前を笑うかのように、渡久地の残していったグラスの中の氷が音を立てた。
**********
名前と渡久地が出逢ってから既に数ヶ月。
名前は渡久地の名前を覚え、渡久地は開店より少し前に来て彼女と少し話すようになった。
そんなある日、ビッグママが友人との飲み会に行くということで、名前が一人で過ごすことに。
自分でバーを切り盛りするくらい酒好きな彼女が飲みに行くと、その日は家に帰ってこない。
そんなことは昔から良くあることだったので、名前は養母を見送るとそのまま店を閉めた。
『…あ、』
そう声を漏らした名前の目の前には、後少しで空になってしまいそうなJINが。
買おう買おうと思っていたのだがすっかり忘れてしまった。
小さくため息をついて財布と携帯などの軽い持ち物だけを持って、酒が揃っている店に向かう。
生憎明日はその店が休みなので、今のうちに買っておかなければ明日JINを使ったカクテルを出すことが出来ないのだ。
「はい、JIN10本ですね」
『すみません、休みなのに…』
「いえ!持ってくだけですから」
臨時休業日だというのにわざわざ配達してくれるという店の好意に甘え、代金だけ前払いした名前は店を後にする。
そういえば慌ただしくこっちに帰ってきてからビッグママの手伝いを始めて、ゆっくり街を見て回っていなかったことを思い出した名前はついでにふらりとすることにした。
5年もすれば町並みなんてものは変わる。
ここの店潰れたのか、なんて思いながらフラフラしていた名前の耳に、軽々しい声色が届いた。
「かーのじょっ!」
「なぁーにやってんの?夜に一人で」
無視するのもどうだろうか、と重い振り返った先には、卑下た笑みを浮かべた男が3人。
顔を顰めた名前に対し、彼等は口笛を吹いたりニヤニヤと笑ったり、嬉しそうな反応を見せた。
「びっじーん!」
「この街にこんな可愛こちゃんいたんだなぁー」
「ねぇねぇ、一人だったら俺たちと遊ばない?」
『…すみません、家に帰らなければならないので』
そう言って踵を返した名前の腕を捕らえた3人のうち1人は、そういわずに、と尚も笑みを浮かべている。
自分を舐めるように見るその視線が酷く気に入らなくて、名前は教わった護身術で自分の腕を掴んでいる男を沈めると他の2人の様子を見ることなく走り出した。
「なっ、」
「このアマっ!」
バタバタと走ってくる足音は少しもつれていたものの、体勢を立て直したらしく自分を追ってくる。
足の速さにはそれなりに自信はあるが体力がないし、何より土地勘がない。
きっと彼等のほうが土地勘はあると判断した名前は心中で舌打ちをした。
追い詰められるのは時間の問題、と半ば諦めかけていた名前を、路地裏から伸びた腕が捉え、すばやく口を塞いだ。
『んんっ!?』
「静かに」
聞き覚えのある声だったが、ばくばくとうるさい心臓のせいで後ろを振り返る余裕もない。
目の前を通り過ぎていくさっきの男達を完全に見送り足音も聞こえなくなった頃、漸くその手が外された。
大きく息を吸った名前の頭を優しくなでてきた後ろの人物を振り返れば、予想通りの人物に安堵の息を吐く。
『渡久地、さん…』
「大丈夫だったか」
『…お蔭様で』
へな、と座り込んでしまった名前の足は震えていて、立つには暫く時間がかかりそうだ。
呼吸まで震えている名前を視線を合わせるようにしゃがんだ渡久地は、彼女の揺れる紺碧を覗き込む。
「家に来い」
『、ぇ?』
「今日一人なんだろ」
『あ、はい…』
「…一人よりいいんじゃねーの」
ぶっきらぼうなその言葉に、いつの間にか頷いていた名前は震える足を叱責し、渡久地に腕を引かれるまま付いていく。
たどり着いたのは生活感のないマンション。
渡久地にいわれるままに風呂を借り、彼の着替えも借りてドライヤーで髪を乾かして。
彼が風呂に入っている間好きにテレビを見ていいと言われたが、特に見たい番組がないためソファに膝を抱えて座り込み、どうしてこうなったかため息をつきながら考えていた。
『(…なんで渡久地さんの家に居るんだろ…)』
彼女でもなんでもないのに、とか、素直に従った自分も自分だ、とかぐるぐる考えているうちに渡久地がリビングに来てしまった。
既に髪を乾かしてきたらしい彼に腕を引かれた名前は、何故か抵抗しない自分に首を傾げながらも歩を進める。
辿り着いた部屋に押し込まれ、そのまま強引にベッドに寝かせられ呆然とする名前。
漸く自分の今の状況を判断して起き上がろうとしたが、同じようにベッドに寝転がった渡久地の腕の力に負けて再び横たわった。
『な、んで、』
「なんでって、あんなことがあったのにお前一人で寝れるのかよ」
ぇ、と小さく声を漏らした名前を強引に抱きしめ、逃げ出せないように足を絡める。
かああ、と赤くなった顔のまま、名前は酷く戸惑った。
流されるままここに連れてこられたことと、こうして彼に抱きしめられていることに。
『…何がしたいんですか、渡久地さん』
「あんな怖がってたのに…そろそろ甘えてもいいんじゃねーのって、思っただけ」
『、?』
「疲れんだろ。ずっと周りを疑って、警戒して生きんのは」
渡久地の言葉に息を呑んだ名前。
今まで殆どばれた試しがないのに、彼は気付いていたのかと。
彼もまた、
「…離れねえよ」
渡久地に顔を向けてはいないが、名前の紺碧の瞳が大きく揺れていることには気付いているのだろう。
無意識のうちににじんでくる視界、重力に逆らうことなく落ちていく熱い雫。
背中と腰に回されている腕も、絡まった足も温かくて、自分の目は熱くて、思考はぼんやりとして。
「名前が望もうと拒もうと、傍に居てやる」
『っ、ふ…』
「置いてったりもしねぇ」
『、っぐすっ…ふ、う』
「だから、」
大人しく俺のモンになれよ
『う、あ…っ』
止まらない涙が渡久地のTシャツを濡らすが、彼は名前の震える体を強く抱きしめる。
名前は目の前の胸板に額を押し付け、Tシャツを握り締めた。
それが落ち着くまで軽く背中を叩いたりしていたからか、嗚咽が消える頃には名前の意識は落ちていた。
「…寝たか」
緩めた腕の隙間から見える名前の目元は可哀想なくらい真っ赤で、今まで彼女がどれだけ我慢していたかを物語っているようだった。
きっと養母にもテレンスにも、誰にも見せたことのない涙を見せてくれたのだろうと思うとなんともいえない優越感に口元が緩む。
穏やかな寝顔の名前の目にわずかに残る涙を吸い、口付けを落としてから、渡久地も瞼を閉じた
(失うことに怯えてるだけじゃ)
(前には進めない)
title:識別
[back]