小説 | ナノ


  恋心に別れを告げる決意



そう決意したのが数日前。
そして名前さんと対面しているのが…


『あぁ河中さん。こんにちは』


…現在。


「…こんにちは、名前さん」


『?どうしました、あまり元気がないようですけれど…』


具合でも、と心配してくる名前さんは勿論愛しい。
けれど好きな人に心配させてしまうなんて、と言う自責の念の方が大きかった。
それからどうぞ、と促されるまま名前さんの隣に座って、本を読み始めた。
あの青い本は僕の手元にあって、直ぐにでも名前さんに渡せるようにしてある。
互いに沈黙のまま本を捲る僕らの視線が合うなんてことは勿論無くて。
数日前の決心が読書の邪魔をして全く内容が頭に入ってこない僕は、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「あの、名前さん」


『、なんですか?』


「あ…読書しながらでいいよ」


寧ろそうしてくれ、と懇願した僕の声は震えてはいなかっただろうか。
少し怪訝そうな顔をした彼女は察してくれたのか、一度僕に向けた視線を再び手元の本に落とした。
ぺらり、と彼女が本を捲る音がして、漸く僕の決心が固まる。


「名前さんってさ、好きな人、いるのかな」


『えぇ、いますよ』


あまりにも真っ直ぐな声、淀みない言葉。
まるであらかじめ用意されていたかのような返事だったのは、僕の心のうちを彼女が感じ取っていてくれたなのか。
それとも、唯の無意識の行動なのか。
とりあえず彼女との付き合いで前者の可能性は消えるだろう…だって彼女は、酷くこの話には疎いから。


『好きな人であり私の恩人、ですかね』


「恩人?」


『…少し、昔話をしましょうか』


そう言って笑った名前さんの視線は、僕に向けられることなくずっと本を向いていて。
けれどその瞳は、どこか虚ろに見えた。
両親を交通事故で亡くしたこと、親戚とのいざこざをきっかけに人間不信に陥ってしまったこと。
ドイツに行ったのは医学を学ぶことは勿論だったけれど、自分を知っている人間から遠ざかりたいと思ったからなのだと言う事。
そして、人間不信に陥ってしまった自分を変えてくれた、愛しい人のことも。
僕が思っていたよりも壮絶、というよりは、随分と人の温もりを感じることの少ない人生を送ってきた彼女。
そんな彼女が知っている温もりはきっと、養母と、彼女を愛し、愛されている男の物だけなのだろう。
そう思うと酷く腹立たしかったけれど、今目の前にいる彼女はその男によって救われたその結果だと思うと、自分が酷く無力な存在に思えた。
僕はその男がいなければ、名前さんと出会うことはなかったのだろうし、こんなに人を愛しいと思うことはなかったのだろう。
そして、こんなにも愛することが苦しいと、そう思うこともなかったのだろうから。


「…そっか」


『すみません、だらだらと話してしまって…あまり気分のいいものじゃなかったから。つまらなかったでしょう?』


「ううん。僕は君の過去が聞けて嬉しかったよ。きっと知っている人は少ないんだろう?」


『、そう、ですね。あまり人に話せる様なものではありませんし』


漸く本から顔を上げた名前さんの瞳には、僕が映っていた。
その瞳はあまりにも悲しくて、寂しくて。
今すぐにでも抱きしめてあげたかったけれど、僕は何とか堪えた。
今此処で彼女に手を出してしまっては、きっと僕は止まる事は出来ない。
それでも、全てを我慢することは出来なくて。


ぽん


『、河中、さん…?』


「…一人で抱え込まなくでいいんだ」


艶やかな烏の濡れ羽色に覆われている小さな頭に手を乗せた。
僕の片手で簡単につかめそうなほど小さなそれは、彼女をより儚く見せて。
こんな小さな身体にどれほどの苦悩を抱えて生きてきたのだろうと。
そしてその苦悩を、名も知らぬ男が少しずつ自分に移し、彼女を支えたのだろうと。


「妬ける、なぁ…」


『ぇ?』


「ううん。何でもないよ」


ぽんぽん、と優しく頭を撫でることで何とか欲望を抑えた僕は、このまま彼女に触れていたいのを理性で押さえつけて彼女から手を離した。
優しく触れていたけれどほんの少し崩れてしまったそこを、名前さんは少し困ったような笑みを浮かべて直していた。


『ふふ、まさか河中さんにも慰められるなんて…』


「僕に"も"、か…」


『いや…でもあれは慰めたって言うの、かな…』


「え?」


『…いえ、なんでもありません』


ふふ、と懐かしむような笑みを浮かべた名前さんの鞄が震える。
正確には、その鞄の中にあるスマートフォンだが。
そして彼女は、僕と彼女が初めて言葉を交わしたのと同じように僕に背中を向けて、電話に出た。


『もしもし?』


あの時は、彼女の対応の声しか聞こえなかった。


『え、買い物?』


けれど、あの時と違ったのは。


『うん、うん…分かった。直ぐに行くね』


『東亜』


男の名を、彼女が口にしたことだ。


「とう、あ…」


あぁ、その名前には酷く聞き覚えがある。
開幕戦で、僕たちフィンガースが完封負けした相手、リカオンズの詳細不明のピッチャー。
贔屓目無にカッコいい部類に入るであろう男は、勝負において酷くストイックで。
チームメイトからも今ではすっかり頼りにされていて。


『それじゃあ、河中さん』


「あ、待って」


『?』


「はい、あの時の本」


『、ありがとうございます』


ふ、といつもより柔らかい笑みを浮かべた名前さん。
あぁ、その笑みが僕だけに向けられた物ならばどれだけ良かったか。
きっとその笑みは、アイツに会えるからなんだろう?
僕から本を受け取った名前さんは小走りに図書館を後にして。
そんな彼女の姿が見えるように、僕は近くの窓に近付いて外を見やった。


「…本当に、渡久地だ…」


名前さんが近付いた先には、赤黒いジャケットを羽織って黒のパンツをはいている金髪の男。
まるで何もかもを見透かすかのような鋭い瞳に、いつもは不敵な笑みを浮かべている端整な顔。
それは間違いなく、あの"渡久地東亜"なのに。


「…やだなぁ…2人して、あんな幸せそうな顔しやがって…」


その顔には、今まで彼女以外見たことのないであろう"微笑み"が浮かべられていた。
近付いた彼女の手を自然な流れで絡めとり、同じように彼女に顔を近付けた。
きっと、キスをしているのだろう。
白昼堂々良くやる、なんてそんな意見を弾き出せるほど僕の頭に余裕はなくて。
ただ、これから僕が迷うことなどないように。
名前さんの幸せを、壊すことがないように。
しっかりとその2人の後姿を、目に焼き付けた。



((あぁ、それでもやっぱり))
(…っ…、)
((哀しい、な…))



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