小説 | ナノ


  悲しいと泣き叫べたら



あの後、どうやって自分の家に帰って来たのだろう。
歩いてきたことは間違いないけれど、歩いたルートも、擦れ違った人も、視界に入った店も。
何一つとして、僕の記憶には残っていなかった。
それは、あの時見た名前さんと手を繋ぐ金髪の男の2人の後姿を強調していて。
きっと、忘れたいと思っても忘れることは叶わないんだろうなんて、苦し紛れの笑みを浮かべた。


「…はは、失恋、か…」


最初は、彼女の意識をこちらに向けるのだと意気込んだ。
名前さんと一緒にいられるのなら、略奪愛でも横恋慕でも、正々堂々じゃ無くたって構わないと思っていた。
そう、思っていたのに。



「苦しそうにしてたのに、俺は気付いてやれなかった」



「…苦しそう、か…」


もし俺があのまま"略奪愛"なんてしていたら、名前さんも、アイツの姉と同じようになってしまうのだろうか。
あんなに幸せそうに笑っていたのに、僕が手を出したばかりに、彼女を苦しめてしまうのだろうか。
そんなことあるわけないと、少し前の僕ならそう思っていただろう。
けれど今の僕には、そう言い切れる自信も確証もない。
意気地なし、と言われても可笑しくないのかもしれないけれど、それでも今の僕には、名前さんを幸せにする自信がなかった。


「あんな幸せそうな顔見せられたら、な…」


あの時固まったと思っていたあの想いは、名前さんの"本当の笑み"で見事に打ち砕かれてしまった。
きっと、名前さんを僕自身のものにしたいと思うことは多分無いだろう。
勿論あの金髪の男にだって、初めから名前さんのあんな笑みが見れていたとは限らない。
寧ろそうだったら、あの男は彼女と長い時間を共有したとでも言うのだろうか。
そう考えるだけで僕の胸の中には、どろりとした汚い物が溢れて溜まって。
名前さんと想い合っている訳じゃないのに、僕が勝手に一人で嫉妬をしている。
なんて身勝手な男なんだ。



「お前は、大切な人を守れる人間になれよ」



アイツが僕に向けた言葉が、胸に突き刺さって苦しい。
それと同時に、ほんの少しの安堵。
後一歩間違っていたら、僕は間違いなく名前さんを傷つけていたに違いない。
でも其れをせずに済んだのは、僕の下らない、何の考えも無く発した質問に糞真面目に答えてくれたあいつのお陰。
そう考えると少し癪だったけど、もしあの会話が無かったら僕はどうしていたんだろうと考えたら、急に怖くなった。
彼女の事をよく知らない僕が、僕の身勝手な行動で彼女を深く傷つけていたのかもしれないのだから。
愛する者の苦しむ顔も愛しいだとか言う奴もいるけど、僕は彼女には笑っていて欲しい。
名前さんが苦しんだり悲しんだりしている顔なんて、見たくないんだ。


でも、


彼女の幸せを壊してしまえば、僕の望まない表情をするなんて事は目に見えている。
けれどあの日から募ったこの思いに嘘はつけないし、消し去ることも出来ない。
なら一体、どうすればいいんだろう。


「…苦しい、」


そう吐露したって、まるで胸が痞えるような苦しみが消えることは無くて。
唾を飲み込むのも、苦しくて。
あの光景が僕にどれほどのショックを与えたのかを物語っていたけれど、不思議と涙は出なかった。
まるで涙を流すのを忘れているかのようで、目頭も全然熱くなくて。
勿論僕が元々涙脆くないって事も関係しているのかもしれないけど、あれだけショックを受けて、記憶も飛ばしたのに。


「…変なの」


まぁ、男が一人話すすってても格好悪いだけだから、別に泣きたいとも思わない。
少なくとも、僕のいつも通りの冷静さを取り戻しつつある頭はそう考えていた。
けど本当は、少しでも楽になれるなら。
僕のこの自尊心が、自分の行動を後悔せずに済むのなら。



(少しで良い)
((悲しいと、泣きたかった))
((それでも僕の瞳は、涙を思い出せなかった))



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