小説 | ナノ


  蟠りが示した答え



あの記憶を思い出してから数日。
それでも、僕の脳裏からあの記憶が剥がれる事は無くて、寧ろ日に日に鮮明になっていくような気がした。
果たしてそれが何を意味しているのか、僕に何をさせたいのか。
心の底では分かっていたのかもしれないけれど、僕は其れを認めたくなくて、必死に覆い隠そうとした。
それでも何度も起き上がってくる其れは、今も尚、僕に警告し続けている。


「…はぁ」


思わず漏れてしまった溜息。
視線を足元に落としつつ、擦れ違う人とぶつからないように気をつける。
再び漏れ出してしまいそうになる溜息を飲み込んで、鬱々とした気分を何とか晴らそうと思って、名前さんの事を思い出そうとした。
彼女を笑顔を思えば、きっとこの気持ちも何とかなる。
そう、思ったのに。


「……なんで、だろう」


思い、出せない。
いや、正確に言えば確かに思い出せてはいる。
僕に向けられた笑みも、僅かに上がった口角も、はっきり思い出せるのに。
それでも何かが違うと、違和感が拭えない。
本当に、自分に向けられた笑みは彼女本来の笑みなのか。
笑っている顔は思い出せるけれど、彼女がどんな目をしていたのかが分からない。
あの紺碧色の美しい瞳は、何もかもを見透かしてしまいそうな瞳は。


どんな目で、僕を見ていた…?


「くそ…」


ぐい、と被っているキャップのつばを引っ張って更に視界を狭くする。
こうすれば、余計なことを考えずにただひたすら歩くことが出来るような気がしたから。
けれど、こんなものは唯の逃げだなんて事は分かりきっていて。
それでも、こうするしかないんだと自分に言い聞かせていると、僅かな香りが鼻を掠めた。


「、…シトラス?」


こんなに人がごちゃごちゃしていて、普通は分からないであろう彼女の香水。
それでも僕の鼻は一体どうしたのか、ほんの僅かなこの香りを見事に拾ってみせた。
此れが幻聴ならぬ幻嗅だったら笑えるな、何て事を考えながらもう一度すん、と息を吸えば、確かに色々な匂いに混ざって彼女に香水の香りがしたような気がする。
別に名前さんの香水の匂いが強いと言うわけではない、寧ろ軽く付けられているだけだから、近付かないと殆ど分からない。
僕が如何に彼女に対して敏感になっているのか、それを自覚させられたような気がした。


「(惚れた弱みって恐ろしいな)」


自嘲の笑みを浮かべつつ、風上の方に顔を向ける。
香りが風に乗ってやってきたのだから、彼女は風上の方にいるのだろう。
擦れ違う人たちに不審がられない程度にと折角気をつけたのに、僕はその気遣いを台無しにした。


「……ぇ…」


視線の先に、確かに彼女はいた。
いつもと同じように艶やかな黒髪を腰まで下ろしているけれど、日よけの為か、洒落たキャスケットを被っている。
それだけなら別に構わない、僕は迷わず彼女に駆け寄っていた。
けれど、それは許されなかった。


「あの、金髪は…」


名前さんは一人じゃなかった。
隣に男が一人、仲睦まじい雰囲気で2人は手を繋いでいる。
名前さんの庇護欲が掻き立てられる、細くて白い指と、男にしては白く細めだけれど、無骨でちゃんと男らしさを感じさせる指が絡んでいる。
それは所謂"恋人繋ぎ"とかいう奴で。
今すぐ目を逸らしたくなったのに、僕の目は、2人に釘付けになってしまっていて。
ふと名前さんの頭が動いて、もしかして此方に気付いてしまったのではないかと焦ったけれど、彼女の視線が捉えたのは、僕じゃなくて隣の男だった。


「…ぁ」


キャスケットに邪魔されることなく見えた彼女の紺碧の瞳。
それは俺に向けられた物と同じ色をしていたけれど、その奥に秘められている物は全く別物で。
此処に歩いてくるまで頭の中を回っていた疑問の答えを、今此処で叩き出されたような気がした。
如何して彼女の笑顔は思い出せるのに、その瞳を思い出すことが出来なかったのか。
答えは、至極簡単なものだった。


「…思い、出したくなかったんだな」


それでも僕は、思い出したくなかったと言う事自体に気付かないふりをして。
まるで子供が自分の欲した玩具をとにかく欲しがるような、幼稚な思考を繰り返して。
思い出してしまったアイツとの記憶は、無意識的にそんな自分を自制するためのきっかけだったのかもしれない。
そして、アイツの姉と、名前さんを同じ目に会わせないために、必要なことだったのかもしれない。


「僕は、…」


僕に向けられた瞳は確かに優しかったけれど。
あの男に向けられた瞳に篭っていた熱は、欠片も存在していなかった。



((二人が視界から消えた後))
((ぽつりと))
((雨が、降ってきた))



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