小説 | ナノ


  アイツの見せた涙が痛い




カランッと小さな音を立てて沈んだ氷。
汗をかいたグラスの中には、アルコールではなく唯のお茶が入っている。
甘党なアイツのグラスには真っ白なカルピスが入っていて。
まるでその白さが、アイツの穢れの無さを表しているかのように見えた。


「お前さ、」


「んお?」


「略奪愛って、どう思う」


面食らったようなアイツの顔は笑えたけれど、その時のなぜか僕は笑えなかった。
何気なく聞いただけの話なのに、アイツは顔を引き締めてやけに真剣な顔をしていた。
その声色がどこか哀愁を帯びているように感じられたのは、きっと、勘違いなんかじゃない。


「略奪愛かー…そうだな。男の方は知ったこっちゃねえけど、重要なのは女の方じゃね?」


「女の方?」


哀愁を帯びていた顔がいっそう哀しそうに歪む。
涙は出ていないようだが、横顔からでもかすかに瞳が潤んでいるのが分かる。
一体何が、アイツにそんな顔をさせるのかは分からなかった。
いつも馬鹿騒ぎしているくせに、コイツにこんなしおらしい表情を浮かべさせるのは一体誰なのか。
気になったけど、聞けなかった。


「そ。その女がさ、もしその男のことを愛してたら。いくら略奪した男がその女を愛したって、」


男を失ったっていう傷は、一生残っちまうんじゃねぇかな


顔を歪めたアイツは今にも泣きそうな顔をしていて。
それでも涙を必死に堪えていて。
そんなアイツは、俺にこういった。


「お前は、大切な人を守れる人間になれよ」


頬を伝った涙が、俺にはやけに眩しく見えた。



ガチャンッ


「っ、!」


いつか話した、友人との下らない話に完全に意識を持っていかれてしまっていた僕を引き戻したのは、何かが割れる音。
あまりにぼんやりとしていたから、僕が何をしていたのかと言う記憶が残っていない。
きっと手に持っていたグラスでも落としてしまったのだろうと溜息をつきながら足元を見た僕は、思わず息を呑んだ。


「っなんなんだよ…!」


僕の足元で割れてしまったのは、名前さんの瞳によく似てるからと衝動買いしてしまったあのグラス。
幸い其処まで粉々になってしまったというわけではないが、当然もうこれは使えない。
苛立ちを隠せない僕は思わずそんな言葉を吐き出したけど、それでもこのむしゃくしゃとした気持ちが晴れることは無かった。


「(なんで、こんな時に)」


普段は馬鹿っぽいことを言うくせに、僕が答えを欲しているときは、嫌なぐらい的確な答えを出してくれる友人。
そんな彼との会話は、アイツの涙は、まるで今の僕の決心が間違っているのだと諭しているように感じられた。
そう感じてしまうくらい、嫌なタイミング。


「そんなことは、…っ」


そんじょそこらの男よりも、自分が名前さんを幸せにしてやれるという自信はある。
けれど、何故こんな会話を思い出してしまったのか。
何故彼女を想って買ったグラスを割ってしまったのか。
考えれば考えるほど、あいつとの記憶が色濃く浮かび上がってくる。


「…止めよう、考えるのは」


きっと、唯の偶然。
そう思った。
そう、思いたかった。


あいつの見せた涙を、忘れようとした。



(…なんでお前が泣くんだ)
(はは…なんでだろ…出てきちまったんだ)
(お前、まさか…)
(違うよ。俺がやったわけじゃない)
(…だよな…お前はそんなことする奴じゃない)
(…姉さんがね)
(、)
(苦しそうにしてたのに、俺は気付いてやれなかった)
(…それ、は…)
((死んじまったよ、))
((そう笑うアイツが、あまりにも哀しくて))
((あまりにも、苦しかった))



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