小説 | ナノ


  図れない僕と君の距離



練習が急遽なくなり、完全なオフになってしまった。
図書館に行こうかとも思ったけれど、つい先日行ったばかりだと言う事を思い出す(彼女は居なかった)。
この間図書館で気に入った本を見つけたから、それを買いに行こうかと思い立って本屋に行って時間を潰すことにした。
立ち読みも出来るから、其処で気に入った本を見つけることも出来るだろう。


「(どこに置いてあったかな…)」


一々何がどこにおいてあるかなんて確認せずに、ふらふらと店内を歩いていると、見たことのある後姿を捉える。
思わず口元が緩んでしまうのを感じながら、僕はなるべく足音を立てないようにその背中に近付いた。
よほど本に集中しているのか、一向に気付く気配はない。


「名前さん」


『っ!』


声こそ上げなかったものの、ビクリと肩を揺らして振り返った名前さん。
いつも通り艶やかな烏の濡れ羽色の髪を下ろして、携帯や財布が入っているであろう小さめのバッグを腕に引っ掛けている。
手に持っている本は


「料理本?」


『、河中さん…』


脅かさないで下さい、と詰まっていた息を吐き出している。
いつもクールと言うか、そんな面を見ることはなかったから、初めて見たそんな彼女に思わず頬が緩んだ。
其れを別の意味に捉えられてしまったのか、名前さんは恨めしそうな視線を向けてきた。


「ごめん、あまりに集中していたから」


『…河中さんて、意外と悪戯好きなんですね』


「はは、別にそんなことはないけど」


好きな子ほど苛めたくなる、というか。
小学生かと思いそうになるけど、男なんて何歳になってもこんな思いを抱く生き物だろう。
そんな言い訳を心の中でしていると、名前さんは読んでいた料理本を閉じた。


「いいのか?」


『はい。買うことにしたので』


「へえ」


名前さんは一体誰の為に手料理を振舞うのだろうか。
そんなことを考えたら、僕の中に汚い、どろりとした感情が湧き上がるのを感じた。
嫉妬、とか言うものなんだろう。
男の嫉妬は醜いなんて、良く言うけど、今の僕自身には良く分からなかった。
嫉妬している本人には分からない、でも傍から見たら醜く見えるのかもしれない。


「名前さんの得意料理って何?」


『うーん…よく、分かんないです』


とりあえず一通り作れるから、と苦笑を浮かべていた。
でも和風よりも洋風の物の方が得意だと、そう言う。
確かに洋風の料理は、物によるが和風の料理に比べて手間は掛からないだろう。


『一時期ドイツに住んでいたので、そのせいで』


「ドイツに?何でまた」


『医者になろうと思って…父も若い頃はドイツで医学の勉強をしたと聞いたものですから』


「そう、立派だ」


『向こうの病院に籍を置いたままなので、こっちじゃあんまり医者らしいことはしてませんけど』


そう言って笑う彼女が愛らしくて、僕も思わず笑みが浮かんだ。
人気の少ない本屋で2人、肩を並べているのを他人から見たら、どう思われるのだろう。


「(恋人、かな)」


そんな浮ついたことを考えながら、2人で本屋の中を回る。
互いに気に入っている本を教えあったり、好きな作家を言い合ったり。
一人で回るよりもずっと楽しくて、時間がとても短く感じられた。


『あ…じゃあ私はそろそろ』


「うん、僕ももう行かなきゃ」


店の掛け時計は既に12時の10分前を指していた。
本当はもっと一緒に居たかったけれど、仕方ない。
趣味が合うのか、彼女に教えてもらった本を気に入った僕も買う予定の本に加えて買った。


『楽しかったです。ありがとう御座いました』


「こちらこそ」


別れ際にそう言葉を交わして、僕らは別々の道へ歩いていく。
一度振り返って見た彼女の後姿は、いつかの図書館で見たその姿となんら変わりない。
眩しい日の光に目を細めて、ほんの少しでいいから、僕と名前さんの距離が縮まっていることを願った。



((そんなことを願ってしまったのはきっと))
((変わらない後姿と距離感が、重なって見えたから))



[back]


×