小説 | ナノ


  純粋に唯、欲しいと思った



彼女が図書館から去って言った後も、僕は暫く其処にいて余韻に浸っていた。


「(名前、か…)」


彼女によく似合う優しい名前だと思った。
まだ僕自身が彼女のことを知り尽くしているとは言いがたいけど、見ている限りでは、彼女はやさしい人間だと言う事は知っている。
街中で見かけた彼女が横断歩道を一人で渡ろうとしている老人を、さりげなく誘導してやったり、親と離れて泣きそうになっている子供に飴を上げたり。
直接声を掛けて人助けをするのではなく、本当にさりげなく庇ったり慰めたり。
きっと自分のことをやさしい人間ではないと言い張るのだろうけれど、本当はとても優しい人だと言う事を、僕は知っている。


「何て呼ぼうか」


苗字さん、苗字、名前さん、名前ちゃん、


「…名前」


思わず呼び捨てにしてしまった。
何も考えずに飛び出してしまった言葉だったけれど、実際に口に出してみると酷く恥ずかしい。
隣に彼女が座っているわけでも、彼女に触れたわけでもないのに、顔が赤くなるのを感じる。
けれどその感覚は不快なものなんかじゃなかった。


「…僕って、」


ほんとに、好きなんだな…名前さんのこと。
一度は否定したこの想い。
けれど日を追うごとに改めて実感させられていたんだ。
僕は名前さんに、一目惚れしてしまったと言う事を。


「(これじゃあ一目惚れしたって馬鹿騒ぎしてた奴を馬鹿呼ばわりも出来ない)」


今までの僕なら、そんな友人が居たら鼻で笑っていただろう。
けれど僕自身がその一目ぼれしてしまった馬鹿になった以上、笑うことなんか出来ない。
はは、と自重するかのような笑みを零して、ソファから立ち上がる。
僕の手には彼女に渡された青い本。
この本の内容が僕の好きな物なのかどうかなんて分からないまま、その本を借りた。
本一冊を片手に駐車場に留めた自分の車に乗り込んで家までの帰路を辿る。
そういえば、結局誘うことが出来なかったななんて事を考えながら。
それと同時にふと思い出したのは、彼女の電話の向こう側の人間。



『もしもし』


『うん。今行く』



きっと親しい人間なのだろう。
相手が男か女かは、名前さんが気を使ってか、僕に背中を向けていたから分からなかった。
ただ、直感的に浮かんできたシルエットは男のものだった。
どうしてかは分からないけれど、あんなに綺麗な女性なら、彼氏と言う存在があっても不思議じゃない。
けど、その彼氏がそこらに居る唯の男だと言うのなら。


「…負ける気はしないな」


名前さんが自分に寄って来る様なミーハー女とは違うなんて事は分かっている。
そうでなければ僕が彼女に惹かれるなんて事は無かっただろう。
僕はミーハー女が大嫌い、と言うかもともと人付き合いがあまり上手くないから、自分に干渉してくるような人間はあまり好きではないのだ。
極めつけは、あの人たちの目に映っているのは"フィンガース投手の川中純一"であって、純粋な"川中純一一個人"としては見ていない。
人の本質を見ないような人間は好きじゃない。
それがこの今までの人見知り人生の中で見出した答えだ。
けれど彼女の目を見たとき、深い海のようなその色に吸い込まれそうだと思った直後に悟らされた。
深い海のような色をしているけれど、透明で、僕の中の何もかもを見透かされている。
彼女は僕を表面で見る人間じゃなくて、内側を見てくれる人なんだと。
僕が彼女に一目惚れしてしまったのは、きっとそれも関係しているのかもしれない。


「、そういえば…使ってたグラス割ったんだっけか」


雑貨店を通りかかって思い出す。
数日前に同年代のチームメイトがうちに押しかけてきて、誤って割ってしまったのだ。
デザインなんて然程気にしていなかったから別に構わなかったけれど。
その店の駐車場に車を止めて店内へ。
閉店間際なのか、店の中の客は少ない。
帽子を目深に被って店内を物色していると、ふと目に入ったグラス。
名前さんの目と同じ色をした、シャープな曲線が彫られた飾りグラス。
気付いたときには其れを手に取っていて、会計まで済ませてしまっていた。


「…ま、いいか」


僕はまだ、名前さんの傍でいつでもあの瞳を見れるわけじゃない。
埋めるまでにはまだ時間の掛かりそうな空虚感を補う為に、僕はこのグラスを自分のものにしたのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。



(はは)
(略奪愛は、趣味じゃなかったはずなんだけどな)
((そんなことを考える自分に、なぜか笑えた))



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