小説 | ナノ


  君の声、君の名前



最近は彼女を見れるかもしれないという不純な理由もあって、図書館に足を運ぶことが多くなった。
勿論本は読むけれど、それよりも先に彼女の姿を探してしまう僕がいて、そんな自分に溜息を吐きたくなる。
読んだ本を返却箱に入れ、ぐるりと本棚を大方回ってみるけれど、彼女の姿はない。
どうやら今日は来ない日のようだとそう分かっただけで酷く落胆してしまうなんて、チームメイトには見られたくない姿だ。


「(彼女が居ないなら仕方ない。さっさと本を借りて帰ろう)」


本来の目的である本を物色する為に、軽く回った本棚を再び縫い歩く。
酷く落胆したからか、上手く働かない頭でぼんやりとしながら歩いていると、とある本棚のコーナーで足が止まる。
目に止まったのは青い背表紙の一冊の本。
何でこの本に目が止まったのかは分からない。
題名も作者も、全然知らないのに。
ただなぜか引き寄せられるような気がして、僕は何も考えずにその本に手を伸ばした。


「『あ』」


その本に触れる前に、別の方から伸びてきていた指とぶつかる。
僕の武骨な手とは正反対の、白くてほっそりとした女性らしさを醸し出している手。
庇護欲を掻き立てられる様な其れを暫く見ていたけれど、はっと意識を取り戻す。
ふと視線を感じれば、その手の彼女が僕のことを見上げているようで。
顔が割れたら面倒だな、何て事を考えながら彼女の顔を見た僕は、動きを止めた。


「(まじ、かよ…)」


僕を真っ直ぐ見上げてくる紺碧の瞳。
小動物みたいなくりくりとしているわけじゃないけど大きくて、猫のような鋭さが感じられる目をしている。
暫くそんな目に魅入っていると、不意に彼女が口を開いた。


『あ、どうぞ』


初めて聞いたその声。
然程高くなくて、けれど低いわけでもない。
耳に酷く落ち着く、心地の良い音程に滑舌の良い綺麗な言葉。
いつまでも聞いていたいなんてことを考えているとは悟られないように、平然を装って返事をする。


「いや、僕も唯手が伸びただけですから…」


彼女が手を引っ込めるに倣って僕も手を引っ込める。
本が寂しそうに見えるとかそんなことはどうでもいいから今は唯、目の前の彼女のことだけを考えて居たかった。
けれど僕のそんな想いとは裏腹に、彼女は別の本を探そうと歩き出そうとしていて。
何とかして引き止めたいと思い、碌に考えもせず口を開く。


「あの…良かったら一緒に読みませんか」


……馬鹿か、僕は。
こんな普通の単行本サイズの本を2人で読むなんて普通に考えてありえないだろう…。
彼女も同じことを思っているのか、少し困惑したような表情を浮かべていて。
穴があったら入りたいというのは正にこのことかと思うと、顔が赤くなるのを感じたから、被っていたキャップを外してそれで赤くなっている頬を隠す。
あぁ、もういっそのこと此処から逃げ出してしまおうかと僕が考えていたとき。


『、是非』


その彼女の言葉に甲斐性も無く安堵の息が出るのが分かった。
何はともあれもう暫くは彼女と一緒に居られるし、少しは会話をすることが出来るかもしれない。
そんな期待を胸に抱いている僕を、彼女はこっちへと案内してくれた。
促されるままについていけば、窓から温かい日差しが差し込んでいる少し広い空間に出る。
今まで何度か此処に足を運んでいたけれど、こんな場所があるとは気付かなかった。


「こんなところあったんだ…」


『奥のほうなのであまり気付かれないんです』


一人になりたいときは絶好の場所ですよ、なんて彼女が笑うと、僕もつられて笑ってしまった。
変な笑い方して無きゃいいけど…。
今まで遠目にしか見ていることしか出来なかった彼女が自分の隣にいると思うと、酷く緊張する。
今は誰にもこの心臓の音を聞かれたくないものだけれど、隣の彼女に聞こえてしまうのではと思うくらいに僕のは暴れ回っていた。
何とか落ち着かせようと思って、彼女の意識を少し自分から逸らす為に持っていた青い本を彼女に渡す。
案の定彼女はその本の観察を始めた…好きなのかな、こういうデザイン。
何はともあれ、先ずは自己紹介をしなければならないだろう…声、震えてないといいな…。


「俺、川中純一。君は?」


心配とは裏腹に僕の声はちゃんと出てくれた。
本から意識の逸れた彼女は、此方を見やりながら口を開いた。


『名前です。苗字名前』


「…野球とか、見る?」


『んー…最近は見るようになりましたよ』


最近か…だったら多分フィンガースの試合を見てないんだろうな…。
じゃなかったらきっと僕のことを知っていても可笑しくは無いはずだから(自意識過剰なんかじゃない、決して)。
だったら、初めて見る僕の出ている試合は生で見て欲しいと思った。
彼女はこの図書館に通っているみたいだから、きっとこの近くに住んでいるのだろう。
この近くの球場で近々試合を控えているから、誘ったら、もしかしたら来てくれるかも知れない。
そんな淡い希望を抱いた。


「あ、のさ…良かったら今度、」


そんな僕の勇気を振り絞った言葉は彼女の鞄の中から響いたバイブの音に遮られてしまった。
ごめんなさい、と一言謝ってから彼女は直ぐにその電話に出た。
…その電話の向こう側の人間が恨めしい。
電話自体は短かったものの、どうやら迎えに来たから早く出てこいという内容だったらしく、彼女は少し慌しげに準備を整えて立ち上がってしまった。


『ごめんなさい、もう行かなきゃ』


「え、あ…」


『この本、先にどうぞ』


彼女が手にしていた本を差し出され、思わず受け取ってしまう。
そんな彼女は他の利用者に迷惑にならない程度にパンプスを鳴らしながら僕から遠ざかっていく。
引き止めたいけど、上手く言葉が出ない。


「あの、」


思わず出た言葉に彼女が振り返る。
苦し紛れに絞り出した声は、ほんの少しだけ震えてしまっていた。


「また、会えるかな」


『本を読むときは此処に居ますよ』


そう言い残して、今度こそ彼女はこの図書館から、僕の目の前から姿を消した。



(名前、か…また会えるかな…)
((いや、違う))
(会うんだ、彼女に)
((本を借りるついでなんかじゃなくて、彼女に会いに、此処に来る))



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