小説 | ナノ


  君の笑顔が美しすぎて



名前も知らない彼女を見た数日後。
あの日借りた本を返すために僕は再び図書館に来ていた。
正直借りた本を読もうとするたびに彼女の顔が頭に浮かんできて集中して読めなかった。
まともに内容の頭に入らなかった本を片手に館内に足を踏み入れる。
相変わらず静寂が支配している其処を、靴の音をあまり立てないようにしながら本棚を縫うように歩く。
この図書館は蔵書数が随分多いが、それを入れるための棚も所々入り組んでいて何処を歩いているか分からなくなる。
此処で働いている職員もこの大量の本の整理は大変だろうなとそんなことをぼんやりと思いながら歩いていると、視界に烏の濡れ羽色が映った。


「、(居た…)」


其処は女性が好きそうな恋愛小説のコーナーじゃなくて。
逆に余り手を出さないであろう日本文学のコーナーに彼女は立っていた。
たったまま本を開いてパラパラとページを簡単に捲っている。
中身を確認してるの、か…?


「(周りに誰もいないからいいものの…誰かに見られたら不審がられるよな…)」


本を選んでいる女性を、ばれないように凝視している男。
傍から見たらただの変態じゃないかと不安になったが、それでも彼女から目を離すことが出来なかった。
かろうじて耳に掛かっていた髪がぱらりと零れ落ちて、本に掛かる。
邪魔だったのか、足と同じくほっそりとした指が烏の濡れ羽色に絡まり、それを耳に引っ掛ける。
たったそれだけの動作だったのに、まるで洗練された動きのように見えてしまったのは何故なのだろうか。


「(あ、ため息ついた)」


どうやら気に入らなかったらしい。
ふう、と小さく溜息をついていて、口角が僅かに下がっている。
手に持っていた本を本棚に戻すと、直ぐに別の本に指を引っ掛けて取り出していた。
未だ日本文学のコーナーに立っている彼女を凝視し続ける僕。
いい加減離れたほうがいいかと思ったけれど、こつり、と彼女のパンプスが立てた音で視線をそちらに戻す。


「!」


背後にある本棚に軽くもたれかかるようにして手にした本を開いている彼女は、


「(笑って、る…)」


初めて見たその笑み。
きっとその本が気に入ったのだろう、なんて事を考える余裕は無かった。
ただ、あまりに綺麗に笑うから、僕はその笑みをじっと見つめることしか出来なくて。
さっきと違って僅かに上げられている口角とか、節目がちで強調されている睫とか、笑ったことで、初めて見たときよりもほんのりと色づいている頬とか。
誰でも浮かべるかもしれないその表情一つでも、彼女が浮かべるだけで特別なものに見えた。


「(って…変態か僕は!)」


図書館に来てからの自分の行動を振り返り、頭を抱えたくなった。
この状況を他人に見られているわけではないけれど、僕自身はしっかりと記憶している。
自分で自分のこの行動を思い出すだけで恥ずかしくなってしまいそうだ。
そう思って溜息をするけれど、頭の片隅では懲りずに別のことを考えていた。


「(どんな声、してるんだろうか)」


駒鳥の鳴き声、鈴を転がしたような声、可愛らしいソプラノ。
可愛い声を言葉に表したような言葉はいくつも知っているけれど、そのどれも、彼女には当てはまらないような気がした。
実際に聞いた事が無いから全ては想像の上だけれど、なんとなく、そんな風に思った。
不思議とそれが、強ち間違っていないんじゃないかとも思えて。
その声の聞きたさに話し掛けようかと思ったけれど、すっかり自分の世界に入り込んでしまっている彼女に話し掛けるのは相当な勇気が必要なようだ。
第一、近付いていくだけれも心臓が破裂しそうなのに…話し掛けるなんてどうかしている。
僕は一方的に彼女を知っているけれど、彼女が僕の事を知らなかったら唯のナンパじゃないか。
そう考えると余計に彼女に話し掛ける勇気が無くなっていく。
あぁ、一体いつから僕はこんな根性無になってしまったんだ!
これじゃあ渡久地東亜に完封負けしたって可笑しくないじゃないか!
はぁぁ、と深い溜息をつきながら自分を叱責する。
ふと彼女が立っていた場所に目を向ければ、


「…い、ない…?」


パンプスの音に気付かないほど僕は自分を叱責するのに夢中だったのだろうか…。
五月蝿くない程度に足早に歩いて受付のところが見える場所まで本棚を抜ける。
僕が其処から彼女を見ているとはばれない程度の位置から盗み見れば、確かに其処には彼女が立っていて。
貸し出しの手続きをされている本は、確かに先程彼女が手にしていた本。
受付係から本を受け取った彼女は其れをバッグの中に入れ、僕に背中を向けて館内から出て行く。
ゆらゆらと揺れるその烏の濡れ羽色は、日光に藍く輝いた。



((遠ざかっていくその背中))
((思わず追いかけたいと思ってしまうなんて))
((ほんと、どうかしている))



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