小説 | ナノ


  高鳴ったのは、僕の胸



時折、僕は図書館に行く。
無論本を借りに行く為だけれど、そんな些細な日常生活でも正体がばれないようにしなければならない。
これでも一応プロ野球選手と言う有名人。
自死意識過剰と言うわけではないけれど、バレたら面倒なことになるなんて事は目に見えている。
濃紺色のキャップを目深に被って、他人から悟られないように。
ロビーでゲーム機を持っている子供を見て、僕があれくらいの頃は、ゲームよりも本を読めと良く言われたものだと思い出す。
そのやや強制じみた読書の習慣も、僕は嫌いじゃなかった。
昔から完璧主義者しての性格が出てしまっていた僕は、他人とつるんでいるよりも本を読んで自分の世界にのめりこむことが少なからずあった。
勿論友人は居たけれど、無駄に多いやつらよりはずっと少ない。
その分、信頼は置けていた。


「こんにちはー」


図書館の受付係が小さな声で挨拶をしてくる。
挨拶を返すにも声を出すのが面倒だったから、小さく会釈をするだけに止めた。
今日はどのジャンルに手をだそうかとぼんやり考えながら歩を進めていると、ふとキャップで狭くなっている視界に白く細い脚が入る。
控えめな淡い空色のパンプスに綺麗に納まっている足。
綺麗だなとは思ったけれど、不躾に見つめるのは失礼に決まっている。
直ぐに逸らそうと脳みそはそう指令を出したはずなのに、僕の目が彼女から離れることは無かった。
最初足だけを見つめていたその視線は徐々に上へ上がり、腰程まである艶のある黒髪がそこら辺で揺れているのを、俺よりもずっと細い腕や肩の形を見てどきりとする。
その間にも俺と彼女の距離は縮まっていて、残念ながら顔はほんの一瞬しか見ることが出来なかった。
ほんの一瞬だったけれど、僕の目は、彼女に釘付けになった。
足と同じように白い肌、見る限りグロスは塗っていないのに、桜色で不思議な色香を漂わせる唇。
血色がいいとはいえない頬は妖しさを帯びていて、少し俯き加減だったのか、瞳を縁取る長い睫がより一層強調されているように見えて。
僅かに見えた深い海のような紺碧は、どこまでも吸い込まれそうな感覚を覚えた。
擦れ違った瞬間に香ったシトラスの香りは、きっと彼女の香水だろう。
甘ったるくない、寧ろ爽やかな香りのそれは、僕の脳髄をズクリと刺激した。
僕と擦れ違ってから止まることなく受付へと向かうその足音を聞きながら、本棚と本棚の間に身を寄せる。
周りに誰もいないことを確認してから、僕は目深に被っていた帽子を外して深い溜息をついた。
その溜息が安堵なのか、緊張なのか、何を吐き出したかは自分自身にも分からなかったけれど。


「…嘘だろ……」


自分の胸中に巡る、野球に没頭していた学生の頃には感じることの無かったこの感覚。
いい加減大人だから、この気持ちが一体どんな物なのかなんてそんなことは分かっている。
でも、僕自身もう20は過ぎていると思うと、この想いが一時のものなのではと思った。


「はは…僕はガキか…」


名前も知らない、声も聞いたことが無い。
ただ、さっき一度擦れ違っただけで、視線も絡みさえしなかった。
彼女を知っているのも、さっきの変態くさい感想も、抱いているのは完全に俺だけという一方通行。
全く、落ち着けよ。


「…あんな美人滅多に見ないから…きっとそのせいだ」


小さく声に出して自分に言い聞かせる。
そうだ、綺麗な女性を見れば自分のものにしたくなるなんて言うのは男の性だろう?
大丈夫、僕が健全な男子であることの証拠だ。
何も自分に限ったことじゃないし、これは恋に近い感覚を持たせるのかもしれないと自分の中で自己完結する。
背中にぶつかる硬い感触を頼りに、ずるずると背中を擦って座り込む。
違う、この感情はきっとこのとき限りだと、そう言い聞かせて。



(一目惚れなんて…)
(そんな、僕は相手を見た目手判断したりしないのに)
((でも、))
((擦れ違った彼女に確かに胸が高鳴ったのは勘違いなんかじゃ、無い))



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