04
意識が浮上し始めて、一番初めに感じたのは風だった。頬を撫でるのがとても心地よい。何となく湿っているわけでもない温かいそれは、季節が春であることを伝えてくる。私がいたところは冬に差し掛かり始めた秋だったというのに、なるほど、こちらは春なのかと、未だに眠りたい、と訴え続ける瞼を何とか押し上げた。
「おぉ。目が覚めたか」
『、っ!』
朗らかな声色。誰かいたのか、と慌てて体を起こせば、くらり、と頭が揺れた。
「これこれ、そう急に体を起こすな。そなたは倒れたことを忘れたのか?」
まぁ、俺のせいではあるのだが、と笑うその声が後ろから体を支えてくれる。背中全体を包むぬくもりは、すでに2度感じたことがあるものだった。
『…三日月、』
意識を失う前、確かに彼はそう名乗ったはず。あってますか、と不安ながらに聞けば、うむ、と嬉しそうに顔を緩めた。
「合っておるぞ。三日月宗近。そなたの好きなように呼ぶといい」
そう笑った彼は「まだ息苦しいか?」と尋ねてくる。確かにまだ僅かな息苦しさを感じはするが、あの時、彼を目の前にしたときのような強烈な息苦しさはもうない。あれは一体なんだったのか。彼を目の前にした瞬間、急にひどくなって。そう言えば目の前の彼も、俺のせいだ、と言ったようなニュアンスのことを言ってなかっただろうか。
まぁ、なんにせよ、今は何ともないのだ。たぶん大丈夫だろう。
『どうぞよろしくお願いします、三日月宗近様』
後ろを振り返りながらそう言う。本当ならば、神様に背中を支えてもらう、というのも失礼に値するのかもしれないが…。
「そんなに畏まらず、もっと気軽に呼んではくれんか」
『そう、言われましても』
「そなたは俺を降ろした。俺にとっては主なのだ。そう畏まられては、俺の立場が無い」
そんなわけがあるか、と独り言ちる。刀の状態だけで、何となく品格が高いことはわかっていた。それを人型にしてみれば、それはより顕著になった。どこか平安貴族のような服を着て、その所作も品の漂う、流れるようなもの。彼は明らかに、誰からも敬われる存在だ。
それに、
『天下五剣ともあろうあなたを、そう気軽に呼ぶわけには…』
三日月宗近。刀には疎いが、国宝レベルとなれば一度は聞いたことがある。まさか最初の一振りに国宝が来てしまうとは、思ってもみなかったが。
「やれやれ…確かに俺は天下五剣の一振りだがな。そうはいっても中身はじじいだ。どうかじじいの願いを聞いてはくれぬか?」
俺はそなたと仲良うなりたいのだ、と砕けた声。しかし、彼女は2つの意味で戸惑う。天下五剣ともなれば、あの品格の高さは決して錯覚ではない。そんな彼と仲良くだなんて、おこがましくはないだろうか。そもそも、もしかしたら気を使ってこんなことを言っているのかもしれないし、何より。
『…どうみても、爺様には見えませんが…』
「お?そうか?嬉しいことを言ってくれるなぁ。あっはっは、まぁ、中身の話だ」
確かに、作られたのは平安のあたりだったはず。服装からもそれは間違いないだろう。だとすると、それから1000年以上は経過していることにはなるのだが、視界に映る男の顔をいくら見ても、20代ぐらいにしか見えない。ただ、確かにこの鷹揚さは若者にはないものかもしれないが。
「このじじいの願い、聞いてくれるとうれしいのだが」
そう何度もだめか?と首を傾げるこの男。口調が随分と穏やかなせいか、随分と若々しい顔と声を除けば、確かに爺様っぽく感じられないこともない。あまり拒否をするのも気が引ける。審神者は少し困ったような表情を浮かべ、なら、と口を開いた。
『三日月さん、とお呼びしても…?』
「まぁ、今のところはそれで良しとしよう」
彼が細めた瞳の中で、三日月が煌めいた。
「期待以上です!流石は審神者様!」
喉が渇いたろう?何か飲み物を持って来よう、と三日月が彼女の部屋を出てすぐに、席を外していたこんのすけが姿を現す。一体どこにいたのかと問えば、必要な時に出てくるシステムなのです、と返ってきた。必要な時に、か。随分と便利な機能だ。
「審神者様もご存じのとおり、先程のは三日月宗近、国宝でございます。他の審神者たちの間ではなかなか出にくいレアな刀で有名なのですよ」
『、出にくい?』
実を言うと、審神者の数は少ないわけではない。ただ、その中で審神者としての力がピンからキリまである、というだけなのだ。とにかく審神者を集めようとしたために、その能力の質には関係なく、とにかく審神者としての素質があるものを、と送り込むことにしたらしい。だがそれは結果的に、質の悪い審神者を送り込んでしまう結果となったらしいのだが…そのような審神者のもとでは、刀剣たちの扱いもあまり良いものではないらしい。
そんなこともあり、今ではできるだけ審神者としての能力値が高そうな人をスカウト(という名の脅し)で審神者にしているらしいが、それでも三日月宗近という太刀はめったに出て来てくれないのだという。
「しかし、そんな太刀を初めての鍛刀でお導きになるとは、さすがにございます!」
『…ひとつ、聞いてもいいですか』
「答えられる範囲であればお答えしましょう」
何でも答える、と言わない辺り流石というべきか。これでは答えは期待できなさそうだな、と思いつつも、審神者は重い口を開いた。
『あの政府の男の人が言っていた…私の容姿は、審神者にうってつけ、なんですか?』
「……それは、少し違いますね」
意外にも、こんのすけは答えた。
「審神者様のような容姿であれば審神者に向いている、というわけではありません。あなたのような容姿、そうそういるわけではありませんしね。普通の容姿でも、審神者として十分な働きを見せてくれている者はいらっしゃいます。…まぁ、聡い貴方ならば、そのうちお気づきになられるでしょう」
『……』
「不満そうなお顔ですね」
『…私の問題ならば、私が知る権利は、あると思っているのですが』
「…申し訳ないですが、貴方だけの問題ではないのです」
彼に腹を立てられては、こちらにも被害が及んでしまうので。
そう言ったこんのすけは、「しばらくしてからまた来ます。体調がよいようでしたらほかにも数本、鍛刀してみましょう」と言い残すと、ぽんっ、と軽い音を立ててその場から消えた。その直後、障子の向こうから三日月の声がした。
「主、入ってもよいか」
『、三日月さん』
どうぞ、と声をかければ、すっと小さな音を立てて障子が開けられる。三日月の手の上に乗せられている盆の上には、急須と湯呑が2つ、載せられていた。
「冷たいものと迷ったのだが、温かい物の方が体も温まるかと思ってな」
こぽぽ、と湯呑の注がれた茶からは、緑茶の良い香りと湯気がふわり、と漂う。なんて、美味しそうなのだろう。
「さあ、飲んでくれ」
お前のために煎れたんだ、と柔らかな笑みを浮かべる三日月。彼女は三日月が差し出した湯呑を両手で受け取り、ぼんやりとそれを見下ろす。おばあちゃんが淹れてくれる緑茶と何ら変わらぬ色をしているのに、香りが、違うような気がして。三日月さんももとは刀剣、こんな風に、お茶を入れる経験などしたことはないだろうに。初めてお茶を煎れる人が、こんなにもおいしそうなお茶を煎れられるものなのだろうか。
「どうした、飲まんのか?」
『え、あ、いえ、』
どこか心配そうな声に、弾かれたように顔をあげる。視線の先の三日月は、まだ体調が優れないのか、と心配そうに審神者を見ていた。心配させてしまったと、彼女は言葉を紡ぐ。
『いえ、三日月さんの淹れたお茶が、とても美味しそうで、』
「初めて故心配ではあったが、主にそう言われるのならば淹れた甲斐があるというものだ」
そう嬉しそうに笑う三日月に、いただきます、といってから湯呑に口を付けた審神者。熱いそれを少し冷まし、こくり、と喉を通ってゆく。白い喉が波打つのを、三日月は目を細めて見つめていた。
(愛しい、愛しい)
(人の子よ)
(どうか俺を)
(受け入れておくれ)
[back]