そして世界に別れを告げた
全て、終わったのだ
辺りを真っ赤に染め上げた黒い狐の面をした女は、ふらり、と戦場から姿を消す。
もう敵はいない、急ぐ必要はない。
それでも残された体力はあと僅かだと分かっていたから。
木々を飛ぶように進む彼女の足跡は、降り注ぐ雨によって流された返り血で真っ赤に染まっている。
背後で響く歓声から遠ざかるように、森の奥へと進んでいく。
降り続く雨は彼女から体温を、体力を奪うのと同時に、彼女を汚していた返り血も落としていく。
艶やかな白銀の髪は本来の色を取り戻し、血に濡れていた黒衣も、血腥さだけを残した。
そんな彼女が駆け抜ける木々の根元には、彼女が始末した手練れたちが折り重なるように、大勢死に絶えている。
そんなものには目もくれずに進み続けたその先にあるのは、血腥い人間には似合わぬ、綺麗な湖。
漸く木々の枝から地面に降り立った彼女の体は、自身の重みを支えきれず、その場に倒れ転がり、仰向けになる。
その拍子に黒い狐の面も外れ、其処から端整な顔が現れた。
『あー…』
だめ、もう、からだがうごかない
雨粒を受け止めていた長い睫が震え、その金色の双眼を覆い隠す。
暗闇の中で雨に打たれながら見たものは、懐かしいものだった。
「冬、かなあ…」
『?』
「好きな季節だヨ。俺は、冬が好き」
『どうして?』
「名前みたいだから」
『私…?』
「そ。名前の髪は銀髪、っていうよりは白銀だしね。綺麗だよ」
『…銀髪も、綺麗』
「俺の?」
『ん、』
「ふふ、あんがと。でも、名前のほうがずっと、ね。髪も眉毛も睫毛も、肌も…真っ白、雪みたいデショ?」
『…初めて言われた』
「お、じゃあ俺が一番だね」
『ゆき…』
そうだ、せっかく、すべておわったんだから…
『せんべつ、に』
よろよろと頼りない細腕を持ち上げ、胸の前で印を結ぶ。
ゆっくりとしたその動作の途中で、ごぽり、と口から赤が溢れだした。
それにも構わずに印を結び終え、声にならない息を吐き出せば、ザアザアと降りしきっていた雨は、ふわりとした白い雪の結晶へと姿を変えた。
季節外れのこの雪は、大きな戦いの終結を祝っているかのよう。
ふふ、と小さく笑った彼女は、役割を終えた腕を、力なく地面に降ろした。
雨の量が多かったのと同じように、雪の量も多い。
あっという間に降り積もった雪は、彼女の髪と同化して。
白銀の世界に、彼女の黒衣と、吐き出された赤が映えた。
『…ごめん、ね…』
誰にも届かぬ、彼女の謝罪の声。
『…しあわせ、に…なって、ほし…』
誰にも届かぬ、彼女の最後の願い。
『さよ、なら』
黒く塗り潰されていく世界は酷く滲んでいて。
空から降り注いでくる雪に穏やかに、最期に小さく、微笑んだ。
『きれい、だ、ね…―――…』
声にならないその声で、一体誰を呼んだのか。
冷たい雪に包まれて、彼女は意識を手放した。
(すまぬ、勝手を許せ…我が主…)
(我はそなたに、ただ、)
((しあわせに、なってほしいだけなのだ))
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