小説 | ナノ


  悪夢から救い出して



『はぁっ、はぁっ、』


走る、走る。
当てもなく、真っ暗な何もない空間をひたすら。
足から伸びる影が周りの黒に対して真っ白で、此処が現実世界ではないのだとはっきり認識させる。
此処が現実ではないと言う事は分かっていても、それでも足を止めることは出来なくて。
何も足が勝手に動いているわけではない。
私は、自分の意志で走っているのだ。


『はぁ…くそっ…』


裸足で走るのは辛い。
足の裏が痛みはじめるのを感じるけれど、それでも背後から追いかけてくる物の動きは止まらない。
カサカサと小さな音を立てて追いかけてくるのを少しだけ振り返って見てみる。
其処にあるのは、紫色の薔薇。
明るいところで見ればただのミステリアスな雰囲気を醸し出すだけの代物だろう。
けれどなぜか、この真っ暗な空間で見るそれは恐怖を煽った。
どうしてそう感じたのかは私にも分からなかったけれど、その薔薇が私に向かって伸びてきた時に直感的に感じたのだ。


ハ ヤ ク 、 ニ ゲ ロ


その直感に逆らうことなく私は走り出した。
そしてまるで、逃げる私を追いかけるかのように伸びてくる薔薇。
植物のはずなのに、まるで生き物が餌を捕食する為に追いかけてくるような勢いで迫ってくる。
体力はないけれど、足の速さには少しだけ自信があった。
裸足で走るのは辛かったけれど、走れる限り速く走る。
それでも、その紫色の薔薇との間の距離が広がることはなくて、寧ろ縮まっているのではと感じた。
そんな感覚の中一体どれくらい走っただろうか。
此処が現実世界ではないとしても体力に限界はあるらしく、吐き出す息は酷く乱れていた。
後ろには尚も追いかけてくる紫色の薔薇。
茨を纏った茎が伸びてきて、私を


「名前!」


『っ!』


がくんっ、と揺さぶられると同時に耳に入ってきた東亜の鋭い声。
視界に映るのは、あの真っ暗な空間でも、紫色の薔薇でもなくて、東亜の金茶色の瞳。
止まっていた息を一度吐き出せば、まるで全力疾走した後のように息が乱れていて。
あの夢が本当に夢なのかどうかを、疑わせた。


「大丈夫か」


『と、あ…』


「随分魘されてた…」


心配しているような表情を見せた東亜は私の頬を軽く拭った。
濡れている感覚がするのは、きっと気のせいではないんだろう。
少し目が痛い。
上半身を起こして私を起こしてくれた東亜は再び私の隣に沈む。
伸びてくる腕にされるがままになっていると、東亜の両手が私の頬を包んで目尻に唇を寄せてきた。
多分其処に溜まっている涙を吸い取ってくれるのだと思うと、酷く恥ずかしくなる。
酷く恥ずかしいけど、酷く安心した。


「悪い夢でも見たか」


『…よく、わからない』


そう、良く分からないんだ。
唯単に、薔薇が追いかけてくるだけの夢。
それだけの夢をこんなにも恐ろしく感じるなんて、どうかしていたのだろうか。
何かの良くない予兆かもしれないと思うことは出来たけど、そんな証拠は何処にもない。
近々試合を控えている東亜に心配を掛けるわけにはいかないと、私は今日の夢のことを黙っていることにした。


「もっかい寝るか?」


『…うん』


正直、またあの夢を見てしまうのではないかと思うと怖かったのが分かったのか、隣から伸びてきた東亜の腕が私を包み込んでくれる。
東亜の腕の中が酷く暖かくて、私の身体が随分冷えているのが分かった。


『あったかい…』


「一緒に居るから、安心して寝とけ」


『ありがと、ね』


「おー」


ぎゅ、と回された腕に力が込められたのを感じた。
投げ出されている足も絡めて、私も腕を東亜の背中に回すと、また少し力が強くなる。
少し苦しいくらいだったけれど、そっちの方が東亜が一緒に居ると感じられて、酷く安心した。



(名前、)
(ん、?)
(俺が、居るから)
(…うん)
((だから、大丈夫だ))
((そう言ってくれるだけで、安心できる))



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