小説 | ナノ


  俺だけが知ってるお前の癖



東亜のいない昼間。
私はリビングで普段掛けない眼鏡を掛けてパソコンを弄ることに専念している。
何もゲームをしているわけではない。
日本に来る前にいたドイツの病院から送られてくる患者のカルテを見ているのだ。


『一時的な帰国のつもりだったのにな…』


今じゃすっかり母国である日本に居付いてしまった。
向こうに居る時に住んでいたマンションは解約したけれど、病院には籍を置いたまま。
こちらに来て東亜との交際が始まった頃に病院に辞表を提出したけれど、残念ながらそれは受理されなかった。
何でも有能な人材は流出させたくないとの事。
とは言え、日本に居ては患者を診察することは出来ない。
だから、メールで送られてくる他の医者が書いたカルテを処理するのが基本的な私の仕事だ。
手術をすることが多いわけではないが、それに呼び出されることが度々ある。
大抵は患者が日本に来ることが多いけれど、ドイツに私が出向くこともある(その時の東亜は機嫌が悪い)。
といっても、後者は滅多に無いけれど。


『八つ目おーわり』


パチン、とエンターキーを押して返事のメールを送る。
家に居ながらにして出来るこの仕事を案外私は気に入っている。
ちゃんと口座にお金も振り込んでくれるし(それも結構いい値段を)。


『…コーヒー切れた』


マグカップを傾けようとしたけれど、視界に入ったのは丸い底。
仕事を一時中断してキッチンに移動してコーヒーを淹れていると、ガチャリと玄関が開く音がした。


「ただいま」


『おかえり』


いつもと同じようにひょこりとキッチンから玄関に続く廊下に顔を出せば、東亜は「お」、と声を上げた。


「眼鏡かけてんのか」


『パソコン弄るときだけね』


この眼鏡は目が悪くならないようにとパソコン用に作ってもらった。
医者にとって目は大事だから、視力は落としたくない。
パソコンを弄る仕事をしていると視力の低下は免れないから、こうして予防策を張っているのだ。


『見たこと無かったっけ?』


「だってお前俺がいない時に仕事するだろ」


『そっか』


それなら確かに見た事が無くても不思議ではない。
ピー、と鳴ったコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注ぐ。
東亜が帰ってきてしまったけれど後一つだけだから仕事を片付けてしまおう。


『東亜コーヒー飲む?』


「飲む」


棚から東亜の分のマグカップも取り出して、真っ黒な液体を注ぐ。
流石お高いコーヒーメーカー。
味も香りも格別。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらリビングに戻れば、ソファに腰掛けた東亜がパソコンを膝に乗せていた。
ドイツ語の羅列に目を通しているようだが、よく分からないらしく眉を顰めている。


「ドイツ語か?」


『うん。英語でもいいんだけどやっぱりドイツ語の方が楽かなと思って』


マグカップを東亜に渡して、自分の分はローテーブルの上に。
パソコンを返してもらって最後のカルテに目を通す。
仕事の最中に東亜が隣に座っているのは初めてだったけれど、不思議と気にはならなくて、直ぐに終わらせることが出来た。
エンターキーを押してメールを送り、パソコンをシャットダウンしてから閉じる。
この間買い換えたばかりの黒地にワンポイントで黄色の猫がくりぬかれているデザインのパソコン。
この黄色が東亜みたいで、存外私は気に入っていた。
膝に乗せていた其れをローテーブルに移動して、眼鏡もはずしてしまう。
張っていた気が抜ければ、どっと疲れが身体にのしかかってきて。
カルテを処理している間に飲んでいたコーヒーはいつの間にそんなに飲んだのか、空になっていた。
ぐ、と両腕を天井に向けて背中を伸ばして力を抜くと、横から東亜の腕が伸びてきて。


『、東亜?』


「少し寝ろ。疲れてんだろ?」


『そんなには…』


疲れてないような、気がする。
そんな曖昧な返事を返している間に、東亜の腕で私は頭を彼の膝の上に載せることになった。
所謂膝枕というものだけれど…普通逆じゃないかな…。


「疲れてる時にコーヒーをがぶ飲みする。お前の癖だよ」


『、そうだったんだ』


観察眼の優れてる東亜がそういうなら、きっとそうなのだろう。
本当に良く見てるななんて考えながら真正面の東亜の顔を見上げていると、少し呆れたような表情を浮かべていた。
早く寝ろ、と言われると分かったけれど、何だか目を閉じたくなかったからそのまま見上げていたら。


「ちゃんと起こしてやるから、軽く寝とけ」


東亜の私より一回り以上大きい手が私の視界を遮る。
瞬きをすれば睫が掌に触れるのを感じた。


「擽ってぇよ」


コーヒーを啜る音と共に聞こえてくる穏やかな声。
それだけで何だか急に眠くなってくるのだから、不思議である。
目を覆い隠すように当てられたその手が離れないように、私は右手で東亜のその手に触れた。


『…おやすみなさい』


「ん、おやすみ」



(…無理、すんなよ)
((仕事だとは分かっているけれど))
((なによりも、お前が大事だから))



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