小説 | ナノ


  独占欲に噛みつかれた



きゅっ、と音を立てて磨かれたグラスには曇り一つもない。
無表情ながら満足げな雰囲気を醸し出している彼女は、今日はビッグママがカウンターにいるために端のほうを占拠していた。
何も追いやられているわけではなく、ビッグママがいると自然と会話が盛り上がるため、彼らが話しやすいように場所を譲っているだけなのだ。
酒を注文されればそれを作り、わざわざ移動するのも面倒なのでグラスを倒さないように器用に横に流すように渡す。
彼らはそれに厭な表情一つせず、「あんがとな!」と必ず一言返してくれるのだ。
そんな何気ない一言が名前にとって掛け替えのない大切なものだし、きっとこういう接客業なるものの仕事についている人間ならば同じようなことを考えるのだろう。
一通り酒の注文の波が過ぎてグラスを磨いている名前の目の前には、静かに酒を飲む渡久地が座っている。
別にどこに座ろうと彼の勝手なのだが、何故か自分の前に座ることが多いような気がしないでもない、と名前は少し気になっていたのだが、そんな彼女の疑問は。


「なあ、」


『、何でしょう』


「付き合わねぇ?俺と、お前で」


綺麗さっぱり、遥か彼方に吹っ飛ばされた。


『……ふぅ』


渡久地の発言自体、誰かに聞かれたというわけではなく周りにあおられもしなかったのだが、いつの間にか彼と付き合うことになっていた自分に小さくため息をつく。


『(まあ…渡久地さ…東亜さんにはそれなりに世話?になったりもしたけど…)』


だからってこう、いきなり付き合うとかそういうことに発展はしないんじゃなかろうか。


そんな疑問をたたえながら、名前は自分の隣に座っているやけに顔の整った男を見やる。
今日は店が休みということをどこからか聞きつけた渡久地は、早速名前を自分の家に呼び出した。
何故か自分の耳に入る前にビッグママにその話が通っていたようで、養母から渡されたカバンの中身を渡久地の家に行ってから確認すれば、そこには見事なお泊りセットが収まっていた。
自分がどんな顔になっているかとかそういうことを考えないままその鞄をひっくり返せば出てくるでてくる…名前がナチュラルメイクしかしないからか、そういう化粧用品は少ないが、ご丁寧に翌日の着換えから肌着、さらには今まで触れたことのないものも入っていて…ひぃぃぃい、と内心青ざめている彼女から、その名前の今まで触れたことのないものを平然と手に取った渡久地は小さく笑った。


「コンドームか」


『わっ、私じゃないですよ!』


「知ってるっつの。どうせビッグママだろ?」


こともなげに言う渡久地にほっとしたが、次の彼の言葉で名前は体を強張らせることになる。


「ったく、態々持たせなくたってゴムぐらい俺も持ってるのに」


『……』


ビキッという効果音が似合いそうなほど体を固めた名前。
洞察力の優れた渡久地がそれに気づかないわけもなく、小さく息を吐いて彼女の頭を撫でた。


「そんな直ぐにヤろうだなんて考えてねーから安心しろ」


…そうは言われてもですね。


『(渡久地さんって、見るからに経験豊富そうだし…)』


休日ということで、今日は外に出るつもりはないのだろう。
いつも店などの外で会うときは逆立っている金髪が、今日は重力に従って下を向いている。
染めたりワックスで固めていた割には綺麗な金髪は、部屋の照明の明かりを反射して、彼が動くたびに滑るように動いた。
それをぼんやりと見ていれば視線に気づいたであろう彼は、なんだ、と言わんばかりの表情で名前を見やった。


『…東亜さん、なんで私と付き合おうとか思ったんですか』


「疑問符がついてないことにはこの際気づかないふりしてやるよ」


彼女の質問の答えとはいいがたい返事をした渡久地は、その整った唇を愉快そうに歪め、自分と名前の間にあった人一人分の距離を詰め、彼女にぴったりとくっつく。
今まで、同性との間でもそんな経験はあまりなく、ましてや異性となんて経験のない名前はびくりと体を震わせるも、彼女はソファの肘掛けに身を寄せていた状態だったので逃げ場はない。
一人困惑している彼女を放っておいて、渡久地はそうだなあ、と口を開いた。


「名前を、俺好みにしたくてな」


『、東亜さん好み?』


は?と首を傾げている名前に笑った渡久地は、彼女の輪郭にその長い指を滑らせる。
冷たい指先に再び体を震わせた名前は、ただ渡久地を見上げるしかなかった。


「名前、俺から見ればあんたはまっさらなキャンバスだ」


『、まっさらなキャンバス…?』


「あぁ。まぁ、人間不信っつーありがたくねぇオマケはついてるが、そのおかげで今まで誰とも交際してこなかったんだから目をつぶることにすっけどよ」


『あの、言ってる意味が、』


よく、わからない


そう小さく声にした名前に、渡久地はただ笑うだけで。
つまり、と渡久地の唇が動く。


「俺の傍にずっと置いとくんだ。だったら、何もかもを自分の好みにしたくなんねぇか?」


まっさらなキャンバスを、自分の好きなように汚すように。
たとえその絵が気に入らなくても、その色を落として自由に描き替えられるように。
自分の傍に置いておくのなら、何もかもを自分のものにしてしまいたい。
そう、それは


「俺の独占欲」


俺に全てを委ねろ、すぐにとは言わねえ


「お前が俺を完全に信用してくれるようになるまで、待っててやるよ。だがもし、お前が俺を信用したというのなら」


そんときは、何もかもを食い尽くすから覚悟しとけ


何とも生々しい宣告。
普通の恋人同士ならば、付き合って暫くなんて甘ったるい空気を垂れ流しにして周りをうんざりさせるくらいなのだろう。
けれど彼らは、まず同じスタートラインに立てていないのだ。
渡久地は、名前が自分と同じスタートラインに立つのを待ってくれている。
それを促すために、彼女を無理やりに近い形で恋人にした。
そうでなければ、きっと彼女は決して歩み寄ろうとはしない。
あまりにも分厚くて硬い氷を溶かすには、時間がかかることはもちろん、誰のでもいい、ほんの少しの強引さも必要だから。


「…まだゆっくりでいい」


だが、俺の気はそう長くない


早く、決心を決めろよ?


そう笑った男に、女は心臓を掴まれた。



(掴まれたのは本当に心臓だったのか)
(恐怖心か)
(それとも)
(恋心、か)


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