鏡の間。
学園長に鏡での移動を許可された僕となまえさんは、大きな鏡の前に立っていた。

「どこに行くの?」

「海ですよ」

「海?」

僕の回答に、彼が一瞬怯んだような気がしたが、構わずポケットから小瓶を取り出し彼に見せる。
貝殻にも似たこの瓶の中には、海の中でも呼吸が出来る魔法薬が入っている。
調合したのはこの僕なので、勿論、効果のほどは保証できる。

「これを飲めば、水の中でも呼吸が出来ます」

「水の中でも…?」

「泳げなくとも大丈夫です。僕は確かに泳ぎは早くないですが、溺れることなど決して無い」

彼は、黙ったままじっと僕の手の中にある瓶を見つめていた。
戸惑っているようにも、言葉に詰まっているようにも見える。
どうして僕がこうまでして彼を海に連れて行こうとしているのか、疑問を思っているのだろう。無理もない。
しかし、口で説明するよりはその目で見たほうが早いだろう。
僕が魔法薬でヒトの形をしている、海に棲む人魚だということを。

「アズール…俺は、」

「僕はあなたに真実を話すべきなのです。あなたが僕を助けようとしたその行動を、無償で受け取ったままではいられません」

「…………そっか。そうだね、うん。俺も話すよ」

何を?、と質問する前に、彼は僕の手から瓶を受け取り中の液体を流し込む。
魔法薬を飲むのは初めてではないだろうが、その独特な風味に少しだけ顔をしかめたのを、彼の顔を穴があくほど見つめていた僕は見逃してはいなかった。

「じゃあ、行こうか」

彼は僕の手を取り、鏡の中へと足を進める。
彼は泳げない、ではなく水がだめだと言っていた。
だから――怖いはずだ。なのに、僕の手を握った手に震えは無い。

「………………………」

鏡に入っていくことなど、この学園に来てからは慣れたはずだった。
しかし、妙な胸の高鳴りがある。
彼に明かすことだろうか。しかし、そんなことは大したことでは無い。
繋がれた手の先にいる彼が、水の中でどのような反応をするのかを気にしているからだろうか。
しっかりと肌で感じる水中で、彼の無事を祈りながらそちらを向く。

「大丈夫ですか、なまえさ―――」

目の前に、知らない女性がいた。
慌てて辺りを見渡すが、彼の姿はない。
というよりも、僕は"彼女の手を握っている"のだ。
何が起きたかわからず、海の中で口をパクパクと動かす僕はまるで魚のようだった。

「うん。大丈夫だよ」

「え、あ―――」

「びっくりした?海の中だと私、元の姿に戻るんだ」

そう笑った顔に、見覚えがある。
というか、こうしてよく見ればその顔立ちには見覚えしかない。
髪は長く身体も一回り程小さくなっているが、彼は―――"彼女"は。

「なまえ、さん…?」

「そうだよアズール。私はなまえ。海の呪いを受けた、ディアソムニア寮の生徒!」

何が嬉しいのか、彼女は僕の手を握っているのとは反対の手を横へ広げた。
その後すぐ、その行動が恥ずかしくなったのかゆっくりと手を下ろしていたが。

「………一から説明してください」

「あはは。冷静だねアズールは」

彼女は笑うが、これが冷静なものか。そう振る舞うことに慣れているだけで、自分の頭の中と感情は既に滅茶苦茶になっている。
これは夢かと現実から逃げようとする思考を必死に繋ぎ止め、ゆっくりと心を落ち着けようとした。
呪いがあるのも、呪いを受けたものがいることも、この世界では有り得なくはない。だとしても、すぐに理解し受け入れられるほど、僕はなんでも知っているわけではない。

「赤ん坊の頃、海に捨てられたんだ」

まだ光の届く此処を彼女は見渡す。
捨てられた赤子はとある人魚たちに拾われ、助けられる。
片や、救われた命は人間なのだから地上で生きるべきだと赤子を返そうとする人魚。
片や、赤子を捨てるような人間と共に過ごすより海に愛されて過ごすべきだと主張する人魚。
赤子に選択を問うたところで返事が返ってくるはずもなく。
双方は赤子の未来に、選択を委ねることにした。

「地上では別の姿になる人魚ののろい。水の中でも元に戻るかと思ってたけど、海の中だけみたいだね」

「………………………」

人魚ののろい。
僕の頭は、酷く冷静になっていた。自分でも落ち着いた心を不思議に思う。

「…目を瞑ってください」

「え!?」

「いいから。瞑ってください」

すっかり失ってしまっていたタイミングを取り戻そうと、なまえさんに指示を出す。
少し戸惑っていたものの、彼女は僕の手を握ったまま静かに目を閉じた。

「……開けていいですよ」

久しぶりにこの姿になったな、と足元を見る。
しかし、彼女の目が開く気配がしたのですぐに視線を彼女へと戻した。

「……………………」

そのまま、彼女は固まった。
丸くなった目と、状況が理解出来ていない視線。
それは僕の足元へと移動したが、予想よりも早く元の場所に戻って行った。

「アズール…その姿、」

「……海での、僕の本来の姿です」

人間の倍以上ある足は、微かにある水の流れに抵抗することなくゆらゆら揺れる。
肌の色も少し違うだろうか。未だ離されない彼女の手は、とても白く見える。

「…人魚、だったんだ」

それは、僕に話しかけているというよりは、彼女自身が理解しようと呟いた言葉だろう。
彼女に呪いを与えた種族である僕を前に、彼女はどのような反応をするのか。
別に僕はあの双子同様、元々人魚であることを隠しているわけではない。姿を見せるかは別として、だ。
そのまま用意していた言葉を並べる前に、「あ!」という彼女の声に驚いて肩が跳ねた。

「じゃああのとき溺れてたわけじゃないの!?」

「え、ええ…。そのお話をしようと呼んだのですが、なまえさんが呪いだなんだと言い始めるので」

「私のせい!?」

あはは、と彼女は笑った。いつも通りの笑顔だが、どうして今この状況で笑いが出るのだと呆れそうになる。
呪いを思い出しいい気分にはならないかもしれないと思っていたというのに、そんな気配は微塵も感じられなかった。

「私、本当にびっくりしたんだよ!先生達には水に入るなって言われてたけど、そんなこと知るかって……」

「あのときはどうしようもなく疲れてたんです。いつもあんなはしたない真似をするわけではありません」

というか、"先生達"ということは、やはり学園の教師たちは彼女の呪いのことを知っているのか。
――彼女の今までの人生を、考えようとしてやめた。
そんなものは憶測にしか過ぎない。彼女がこれからどうしたいのかを知るのが、"呪い"を知った僕に出来る唯一の対価の支払い方法だ。

「で?僕に呪いの解き方を教えて欲しいんですか?勉強を教えるみたいに」

「解き方はもうわかってるよ」

「…はい?」

ならば何故僕に呪いの話をしたのだと目を丸くする。
人魚は珍しくもなく、呪いを受けたものも希少ではない。
姿や場所が違うだけで、普段と会話をしている雰囲気が変わるでもなかった。
だから、少しだけ驚いた。彼は僕への対価を必ず支払い、僕もそれに見合った報酬を捧げてきたのだ。

「18の誕生日がくるまでに地上で運命の相手を見つけること!でも、そうだね。別にもう呪いなんてどうでもいいかも」

「……一体何を言っているんですか」

そんなはずはないだろう、と眉間に皺が寄る。
彼女の言葉が強がりではないことがわかったので、尚更。

「海の中でもアズールに会えるってわかったから、地上に固執する必要も無いかなって」

「僕だけに会ってどうするんですか。ずっと海の中で過ごすわけにもいかないでしょう」

はあ、とため息をついたあとに視線を上げれば、彼女と目が合う。
なまえさんは微笑んでいた。寂しそうではない。嬉しそうに、海の中で。
学園で過ごしているときと変わらない瞳は僕自身を見つめていて、僕は息をのんだ。

「そろそろ行こっか、地上に」

ずっと握られていた手に力が入った。
確かに、そろそろなまえさんに飲ませた魔法薬の効果が切れる時間も来る。
何故か言葉が出てこない僕は、無言のままなまえさんと共に鏡へと進む。
なまえさんの"いつもの笑顔"に見惚れていたことに気付いたのは、自分の部屋に戻ってからだった。

海の魔法使いが恋心に気付くまで



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