その日私はひどく疲れていた。
ここ最近仕事が忙しく、毎日朝から晩まで休みなく働いていたせいで、疲れが溜まってしまっているのだ。
こういう日、私は必ず長風呂で心身を癒すと決めている。
やっとのことで仕事を切り上げて深夜に帰宅した私は、溜まった洗濯物に心を痛めながらも、とにかくお風呂に入るため、着ていた服を洗濯物の山に更に積み上げると、下着姿のままバスルームへと入りシャワーで湯舟を軽く流してから栓をしてお湯を張り始めた。
むわっと蒸気が上がり視界が白く濁る。
程よい温度のお湯が出ていることを指先で確認してから、なまえは寝室へと足を向けてドレッサーに置かれたお気に入りの香水を手に取ると、バスルームへと戻り、湯の溜まり始めたバスタブの水面に香水を向けて何回かプッシュした。
好きな香りが蒸気でふらりとバスルームへ広がる。
香水風呂は私の数少ない贅沢な趣味の1つといえた。
疲れた日はとにかく明日に向けて気持ちを上げなくてはならい。
だから私は疲れている時、こうして長風呂に入るのだ。
溜まっていくお湯を眺めながらぼーっとしている間に7割ほどまでお湯の張られた湯舟を見て、蛇口から出ているお湯を止めると、なまえは待っていましたと言わんばかりに、さっさと下着を脱いで足の指先からゆっくりと湯舟に入った。
少し熱めお湯がゆっくりと身体に沁みていて、やっと今日の緊張がほぐれていくのを感じる。
「はぁ・・・」
気持ちが緩んだのだろう。思わず深いため息が零れ落ちた。
最近ではプライベートどころか、この家にすらほとんどいる時間がない。
休めていないせいで疲れているのはもちろんなのだが、それ以上に心のゆとりがない状況が私にはキツい。
特に一度誰か寄り添うことを覚えてしまった私には。
(ブチャラティはなにしてるかしら)
最近すっかり会えていない、私にとって唯一の寄り添う相手と呼べる彼の顔を思い浮かべながら私はゆっくりと目を閉じた。
もしかしたら、彼は相変わらずこの部屋を訪れているのかも知れない。
でも、自分がほとんどこの部屋に居ないせいでそれを確かめようはない。
(会いたいな、)
特に何か目的があるわけでもないというのに、相手に会いたくなる。
それはとても特別な感情だとなまえは自覚していたし、実際ブチャラティは彼女にとって特別な相手である。
だが、この会いたいという感情を彼に対して直接ぶつけることは無いのだろうと思う。
それは年上のプライドなのか、正式に付き合っていないからなのか…。
とにかく伝えない思いだと考えてしまうと、この気持ちを抱いているこの時間が、ただの時間の無駄にも思えてしまう瞬間があって、本当ならばしばらく忙しくて会えないと彼に伝える方法なんていくらでもあるはずなのに、なまえは彼にそれを伝えなかった。
自分はそうする事で彼を試しているのかもしれないと薄々気づいていた。
彼がいつまで自分に興味を持ってくれるかを、彼も同じように自分に会いたいのかを試しているのだ。
いい歳して、なんてワガママなのか。
自分よりもずっと年下の男に対して、大人気ない。
そこまで考えてからなまえは思考に急ブレーキをかけた。
疲れているせいでこんな感情になるのだろうか。
ただでさえ疲れているというのに、余計な陰鬱な気分まで増してきて、彼女はただボーッと自分の足先を見つめた。
ー
ー…!
ーっおい!
「…!おい!起きろ!」
突然の声にハッと、目を覚ます。
「、っ、」
「何をしているんだ!」
戸惑うなまえの前には、先程まで考えていた相手であるブチャラティがいた。
なぜ彼がここに、うまく働かない思考を懸命に動かすなまえを待つことなくブチャラティは急かすように話し出す。
「風呂場で寝るなんて、危ないだろう!」
彼の焦った顔とセリフをゆっくりと繋ぎ合わせて、そして初めて自分が浸かっていたお湯が冷めている事に気づく。
「やだ、私ったら疲れて、それで、」
「とにかく落ち着け。体調は?フラつきや目眩はないか?」
「え、ええ、大丈夫よ。なんともないわ」
「よかった。それじゃあとにかく、シャワーで身体を温めてから出てくるんだ。俺はキッチンで飲み物を準備しておこう」
彼はそう言ってバスルームを出ていった。
いつの間に来たのか、今は何時なのか、聞きたいことは山ほどあったが、とにかく今は彼のいう事を聞くことにして、なまえは蛇口を捻り温かいお湯を身体浴びた。
「出たか、」
彼女がバスルームを出てゆっくりとリビングに現れるのを見て、ブチャラティはそう呟いてソファーから立ち上がり当たり前のようにキッチンへと向かっていった。
なまえはそんなブチャラティの後を追いかけて、彼の背中に謝った。
「心配かけてごめんなさい」
「本当だ。全く、たまたま俺が来たから良かったが…」
彼はそう言いながらなまえの頬に手を添えてゆっくりと唇にキスを落とす。
「あまり心配させないでくれよ、頼むから」
「…ごめん、」
落ち込んだ顔をする彼を見て、なまえはお風呂場で考えていた自分で浅ましい感情を心底恥じた。
こんなに心配しくれた彼を試すだなんて、自分は一体何様なのかと。
そんななまえの様子に気づいているのかいないのか。
ブチャラティは冷蔵庫のミネラルウォーターをカップに移して差し出してくる。
なまえは何も言わずにそれを受け取ると、ゆっくり口を付けた。
寝てしまっている間に喉が乾いてしまっていたのだろう、冷えた水が喉によく染みた。
「なあ、」
「ん?」
勢いよく水を飲みきりシンクの淵にコップを置いたなまえにブチャラティは、改まったように話し出した。
「俺は君の彼氏、と思っていていいんだよな?」
ブチャラティの質問はあまりにも率直だった。
若さや幼さとはなにか、なまえにはその答えは完全には分からないが、こういう素直で真っ直ぐな気持ちをぶつけられることがその答えの1つであるように思い、なまえにはもうないその感情に向き合う勇気が足りず、彼女は真っ直ぐブチャラティを見ることが出来なかった。
「あなたは若いわ、」
「なあ、言い訳なんてもういいじゃないか。こっちを向いて、ほら」
俯くなまえの顎を少し持ち上げてブチャラティは彼女の視線を逃さないように見つめる。
「好きだ、愛しているんだ、なまえ」
誤魔化そうと思えばいくらだって言葉は言えたはずなのに。
彼との関係は正式じゃないから楽だと思っていたのに。
自分の意志の弱さを自覚しながら、なまえは彼の真っ直ぐな愛が欲しくてたまらなかった。
「私も、あなたが好きよ。ブチャラティ 」
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