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まずいと思った。目が合ってしまったから向こうもわたしのことを認識している。わたしだと気づいたかどうかは怪しいところだ。彼の頭の中にまだわたしの名前が残っていれば少し危険かもしれない。


「名前さーん!」


案の定、彼は一瞬で表情を変えて片手をぶんぶん振った。気づいてくれ、と合図を送っている。まったくどうして、アイドルが公衆の面前で特定の女の名前を口にするんだ。そんな子に育てた覚えはない。おかげで、人混みの中で彼とわたしに注目が集まる。


「ねぇ、名前、あの子あんたのこと呼んでない?ていうかあの子、葵ひな」


隣にいる友人が皆まで口にする前に押さえ込んだ。ただでさえ状況は芳しくないのにこれ以上悪化させてどう責任をとってくれるのだ。


「行くよ」
「え?いいの?めっちゃこっちに手振ってるけど」


混乱している友人の手を引っ張って、彼がいる方とはべつの方角に足を向ける。いいの。そういう約束だから。躊躇いなど一切ない。わたしの足は震えることなく動いてくれた。





友人との食事を終わらせ自宅に向かう。もうすぐ到着するところで、スマホが振動した。ゆっくり取り出して確認すると、もう何度も目にした名前がディスプレイに表示される。ついでにいうと今日だけでもこれで5度目だ。


「はい、名字です」


埒があかないと思いスマホを耳に当てる。聞こえてきた声はいつもと同じ調子だった。


『ひなたです。名前さん、いまどこ?』


昼間のことを思い出す。久しぶりに見た彼は元気そうだった。隣にわたしがいなくても、彼なら大丈夫だ。


「帰宅して家で休んでるとこだよ」


自分でも不思議なくらいすらっと口にできた。
マンションの階段を登って、自分の家に向かう途中で足を止める。


「!?」


スマホを耳に当てたまま、わたしは固まった。


「……嘘つき。そんなに俺に会いたくないの?」


彼も耳にスマホを当てたままわたしを見つめる。同じ声が二つ重なって耳に届いた。
ゆっくりとスマホを耳から離して、彼と目を合わせたままその場に立ち尽くす。これ以上は前に進めない。


「何しに来たの。忘れ物?」


できる限り自然に、動揺を悟られないように口にする。彼の私物はもう何一つ残っていない。目についたものは全て送り返したはずだ。


「そうです、忘れ物!ごめんなさい!俺が悪かったです!……って、言い忘れたから」


冗談っぽく笑った後に、笑顔を消して目を細める。わたしは一度も視線をそらさなかった。


「いいよ、もう。気にしてないから」


わたしの口から出る言葉にはどれも温度がなくて、だれが聞いても嘘だとわかってしまう。きっと、彼もわかっている。でも近づくことも、名前を呼んであげることも、優しくしてあげることもできない。


「じゃあ、もう一度やり直しませんか」


わたしと彼の間に流れる空気が、張り詰める。予想できたことなので、返す言葉も決まっていた。


「ごめんね。もう終わったでしょ?」
「俺にとっては終わってない。それとも新しい人ができたとか?」
「いないよ、そんな人」


少し躊躇いがちに聞かれて、わたしは即答してしまった。


「よかった!ほら、名前さんの好きなやつも持って来たから!」


急に一歩分だけ距離が縮まる。彼が足を踏み出したからだ。ずん、と突きつけられた箱には、わたしが好きな洋菓子店の店名が刻まれている。


「なにそれ」
「え?なにって、シュークリームですよ!好きでしょ?」


彼が昔のように話したがっていることが手に取るようにわかった。


「スイーツに釣られるほど単純だと思ってるんだ?」


実際はシュークリームなんてなくても、彼のことを抱きしめたくて仕方がなかったんだけど。どうしても素直になれない。


「ほんとはシュークリームより俺につられて欲しかったんだけど」


そう言って俯く彼はやっぱり年下の男の子だった。
彼の方こそ、わたしなんかじゃなくてもっと若い女の子と新しい恋を始めたらよかったのに。


「ひなたくん」


久しぶりに呼んだ名前がすごく懐かしい。彼の名前を呼ぶ権利が、今のわたしにもあるんだろうか。
ひなたくんはわたしの一歩手前まで来て、立ち止まった。彼もそれ以上先には進めないようだった。その代わり、昔から変わらない真っ直ぐな瞳でわたしを見つめる。


「今日、名前さんの顔を見たらここまで来てた。やっぱり好きだって。お願いです。もう一度、俺のこと、好きになってくれませんか」


わたしはもうずっと前からひなたくんのことが大好きだよ。
答える代わりに抱きしめてあげたくて、彼のもとへと足を踏み出した。