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月人に手を引かれて入った図書室は、いつもと少しだけ雰囲気が違うような気がした。早苗はトトの元へ歩み寄っても離されない手にそわそわしながら、月人がトトに話しかける様子を半歩下がって聞いていた。


「トト・カドゥケウス、質問があります。」


いつも落ち着く静けさだと思っていたこの場所も、今日ばかりは心臓に悪い静けさに感じてしまう。トトの他の神々とくらべて低い声が、妙に緊張感を与えてくるのだ。


「何事だ」

「アポロン・アガナ・ベレアから聞きました。卒業後、本来帰るべき世界と別の世界へ帰すことも可能であると。俺を人間の世界へ送る、または早苗を日本神話の世界へ送るということも可能なのでしょうか」

「可能だ、技術的にはな」


トトは意味深な言葉と共に本をパタンと綺麗な音をたてて閉じると、座ったまま月人と早苗を交互に見やってため息をついた。眉間にシワがよっているのはいつものことだが、今日のそれは不機嫌さではなく悩ましさの現れのようだ。
アヌビスは居ないらしい静かな図書室の中へ視線を彷徨わせ、トトは少し考えるような間を開けてから続けた。


「八尺瓊勾玉は、陰陽の影を司るもの。つまり、ツクヨミの持ち物であると現代日本では考えられている。つまり、矢坂がツクヨミである戸塚月人について日本神話の世界へ行くことに問題はない。技術的にも可能だ」

「ではなぜ、トト・カドゥケウスは渋るのですか。何か理由があるのでは?」

「アマテラス…戸塚陽の件だ。」


あぁ、と月人が小さく呟いたのが聞こえた。最初の頃に比べると、だいぶリアクションも人間らしくなったように思う。
早苗は月人に視線を向け、それから床に視線を戻してトトの言ったことを反芻する。陽のこと、というのは、陽が八尺瓊勾玉に執着していた件だろう。それはもう解決しているはずだ。天岩戸に隠れることもなく、陽はきちんと職務をこなしていることだろう。


「トト様、陽さんの問題というは一体何でしょうか。八尺瓊勾玉を欲しがっていた、という件は解決したかと思っていたのですが…」

「全くもって厄介な話だが、あいつが過去人間の娘を気に入っていたことは知っているな?」


早苗は大蛇と戦った際に勾玉が教えてくれた記憶を思い出し、はっきりと頷いた。


「どうも、その娘の魂とやらは成仏し一度は転生したものの、今は別の場所にとどまり生まれ変わることを拒否しているらしい」

「別の場所、ですか?」

「貴様の体だ、矢坂」

「は?」


早苗は失礼を承知でトトに向かって呟いた。大蛇を倒したのに、一難去ってまた一難とはぶっちゃけありえないレベルだ。ようやく自分たちのこれからについて向き合う覚悟が出来たというのに、それを端からへし折りに来るとは、運命の女神とやらは随分なサディストらしい。
隣の月人も「え?」と小さくつぶやき、こちらに視線を送ってきているのが分かる。早苗は先を促すようにトトを見やった。


「貴様も八尺瓊勾玉に選ばれた、特殊な人間だ。相性がいいのだろうな。平たく言えば取り憑かれているという状態だ。」

「ですが、私の体には何も異常は…」

「ほう?神に近しい姿に変化しておいて、異常が無いと言ってのけるか?」


言われてみればごもっともな話である。箱庭という摩訶不思議空間に居るとはいえども、ただの人間であるはずの早苗が空を飛び炎をまき散らし、日本神話の化け物と対決して打ち勝ったのだ。
まして脳内に記憶が流れこんでくるなど、よくよく冷静になって考えてみれば、とてもオカルトチックな出来事だ。早苗は小さく頭をかかえた。


「貴様は勾玉を所持していたためんか。なまじ力が強い。所謂、霊力やら法力やらと言われる力だな。そのせいで取り憑いたはずの巫女が、貴様に呑まれかけているのだ。その状態で陽に会わせれば…」

「早苗からあの巫女を無理に引き剥がそうとするかもしれない、ということですか」

「そんなことをすれば…」

「早苗に何があるか分かりません。それを実行しようとした戸塚陽に、俺も何をするか分かりません。」


何が在るか分からないという発言に、早苗は脳内で「出てけ〜出てけ〜」と念じてみるものの、特に変化は感じられない。首に下がったままの勾玉を握ってみても、特に何も起こらない。
陽は日本神話の中でも特に力のある神だ。それが執着している女性を手に入れようと動けば、その威力は計り知れない。どの神話でも愛は巨大な原動力となりうるのだ。


「私が、陽さんを説得します。」


恋しい愛しい相手を思って行動を起こしてしまう気持ちはとてもよく分かる。分かるからこそ、陽を説得してみたいと思った。
そして出来るならば、もう一度陽と巫女を会わせて互いが納得した上で体を返してもらいたい。力が均衡していないが故に、早苗が巫女を飲み込んでしまう前に、どうにか会わせてあげたいのだ。
巫女や勾玉から受け取った記憶のなかで、陽はとてもやさしい顔をしていた。とても愛おしそうに巫女を見つめていた。神々が人間に向けた愛情を偽物だと、簡単に諦められるものだと言ってしまえば、早苗と結衣がこの一年積み上げてきたものをも否定することと同じだ。


「どうにか、私の中に居る巫女と陽さんを会わせてあげたいんです。トト様、何か…何か良い方法はありませんか?いえ、それらしい内容の本の場所だけでも」

「はぁ…分かった、好きにしろ。ただし、私は陽に何を言われても何をされても責任は取れぬ。いいな?」

「はい!」


トトは人間は予想を遥かに超える頑固者が多いと愚痴をこぼしながらも、すぐ近くにあった古い書物を一冊手に取った。ペラペラとページをめくると、開いた状態でこちらに差し出される。
早苗が本を受け取って中身を見てみても、古い日本の書物なのか文字を読むことが出来ない。かろうじて挿絵から三種の神器と、何か儀式の方法が書いてあることが分かった程度だ。


「ともかく、今すぐに陽に会いに行くのは得策ではないだろう。卒業までにどう説得するか考えておくのだな」

「はい!」



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