お名前変換



早苗のよく知る神話の通り、ヤマタノオロチと祈りの光が消えた場所には一振りの剣が落ちていた。尊はいたくそれを気に入ったようで、貰えないかどうか結衣に交渉するらしい。
3人が生徒たちが逃げてきていた場所に戻ると、珍しく穏やかに微笑んだトトと誇らしげなゼウスが出迎えてくれた。


「よくやった、よくやったぞ矢坂。」

「いいえ、月人さんと尊さんのお陰です」


疲れが出たのか勝手に元の白衣姿に戻ってしまった早苗の後ろで、尊が「姉ぇが一番頑張っただろ!」と誇らしげに胸をはった。月人も尊も人間の姿に戻り、達成感のにじみ出る笑顔を見せた。
次々と労いの声をかけてくれる神々と精霊の生徒たちの向こう側で、ズンと落ち込んだ様子の結衣とそれを労るような様子のアポロンが見えた。緊急事態だっとはいえ、元凶になってしまったと思っている結衣を放り出して一人で解決してしまうのは良くなかったかもしれない。
早苗は結衣に何か声をかけなければと思う反面、アポロンにそっと肩を抱かれている様子がどうしようもなく羨ましくて、声はでてこなかった。年下の女の子にヤキモチをやくだなんて大人げない。自分だって愛されたいと思ってしまうだなんて、一緒に居てくれる月人にとても失礼なことだ。


「箱庭を再開する。各自今日は自室へ戻れ。明日は平常通りに授業を執り行うので遅れることのないよう」


トトのよく通る声で連絡事項が伝えられ、生徒たちは散り散りに楽しげなお喋りをしながら寮へと戻り始めた。早苗が少し離れたところでソレを見ていると、後ろに立っていた月人がそっと肩へ手を回してくれた。
驚いて顔を見上げると、悪戯が成功した時の子供のように小さく微笑んでいた。


「君も、こうされたいのでしょう?」

「〜っ、よく…お分かりで」


随分としっかりこちらのことを見てくれていたようで、月人は生徒たちの波が収まるまでそのままで居るつもりのようだった。流れていく生徒たちを見つめていると、自然とその向こうで立ち止まったままの結衣とアポロンの姿が目に入った。途切れ途切れではあるが、自分のせいだ、弱いから、などという結衣の弱々しい声が聞こえてくる。
早苗と月人は顔を見合わせて頷き合うと、一向に帰ろうとしない結衣たちに歩み寄った。


「草薙さん」

「早苗先生、ツキツキ…。」

「お話を、お聞きしても大丈夫ですか?」


早苗が出来るかぎりの優しい声で控えめに問いかけると、結衣は伏せていた顔をばっと勢いよく持ち上げた。目尻には大粒の涙が溜まっていて、太陽の光を反射してキラキラと光っていた。
泣いている彼女に失礼だとは思ったが、その泣き顔はとても綺麗で、同じ女性であるはずの早苗も一瞬思考が止まってしまうかと思った。


「ごめんなさい!先生!私のせいでこんなことになったのに…私、何も出来なくて……先生や月人さんたちを危ない目に遭わせてしまいました。」


やはり、結衣は早苗が思っていた通りのことを気に病んでいたようで、早苗は思わず目を丸くして月人を見上げてしまった。月人もまた同じことを考えていたのか少し目を見開いていて、それから結衣に向き直ると優しく口を開いた。


「草薙結衣、どうか気にしないでください。俺たちには君を責めるつもりはありません。」

「ですが…」

「俺と早苗の枷が外れるきっかけをつくってくれた。そのことに、とても感謝しているんです。ですから、君が気に病む必要はありません。」

「それでも、と思うのなら」


早苗は所在なさ気にしていた結衣の両手を握ると、自然と持ち上がる口角をそのままに微笑んで言った。


「私とお友達になってください。4つも年上ですけど、私のこと早苗って呼んでくれませんか?箱庭で出会えた人間同士、私は友達でいて欲しいんです。他の皆さんのことは名前で呼ぶのに、私だけ苗字ですし」

「い、いいんですか!?…あ、の…早苗、先生……」

「友達なんだから、先生をつける必要なんてないよ、結衣ちゃん」


名前を呼ぶと、結衣の目は更にうるうると涙を溜めたかと思うと、堪えきれなくなったのか早苗の胸元にわっと抱きついてきた。早苗は結衣を抱きしめて頭をそっと撫でてやると、いくらでも泣いて良いよと伝えるために大丈夫、大丈夫だよと呟いた。
早苗だって高校生の頃にこんな経験をしたら、怖くて震えていただろう。今は成人してしまったという妙なプライドと責任感から、どうにかいつもどおりでいられただけだ。それも月人が側に居なければ、その責任感さえも崩れていたかもしれない。

泣きじゃくる結衣を見ていたアポロンが、ふと月人を見やった。何かを思い出したのか、言いたいような言いたくないような、迷ってから口を開く。


「ツキツキ、トト先生から聞いているかい?僕たちを元の世界以外に帰す…別世界に帰すことが出来るって話を、聞いているかな?」

「……元の世界以外、というのはどういうことでしょうか?」


月人が慎重に聞き返すと、アポロンは聞いていないのかと驚愕の表情を見せた。


「妖精さんが言われたんだ、人間の世界ではなく、別の神話の世界へ帰すことも出来る、出来るんだって。だからきっと、早苗先生も望めばツキツキと同じ世界へ帰れるんだよ!帰れるんだ!」


アポロンの言葉に、早苗も月人も顔をあげた。そしてお互いに顔を見合わせると、どうしてよいのか分からずにただポカンとした表情を浮かべる。
ずっと、この箱庭が終われば離れ離れになると信じて疑わなかった。力のある神によって定められたことなのだからと、覆そうともしなかった。それがまさか、同じ場所に行くことが出来るだなんて予想もしていなかったことだ。


「早苗…」


小さく、こちらの様子を伺うように呟かれた名前に、早苗はぴくっと両肩を震わせた。一緒に行けるものなら行きたい。ただ、元いた世界にも早苗がこなすべき仕事があり、戻るべきであると理性が告げる。何より月人は神で不老不死のような存在だろうが、早苗は只の人間であり、月人に比べればよっぽど短い時間で死んでしまう。
どんなに互いが思い合っていても、その壁は超えられない。それならばいっそ、最初から別れを選ぶ方が良いのではないだろうか。そうとすら思ってしまう。


「行かないでください」


早苗がはっと月人を見つめ返すと、月人もまた驚いた顔をしていた。泣き止んだらしい結衣が、そっと早苗の腕の中から出て行ったが、驚きのあまり何もリアクションは出来ない。


「いえ……忘れてください。君の好きなようにするべきだと、俺は思います。」

「忘れられません。もちろん元の世界のことも大切ですが、それ以上に月人さんと離れがたい…」


両親に、友達に、会社の人たちに。迷惑や心配をかけてしまうかもしれない。
それでも、もし早苗も別世界へ行くことが許されるのであれば、月人と同じ日本神話の世界へと行きたい。人間の恋心なんて簡単に消えていくものだと思っていたが、こればかりは譲れないと思ってしまったのだ。
子供っぽい考えであるかもしれない。自分の世界に帰らなかったことを後悔するかもしれない。
そんなリスクをおかしてでも、月人の側で笑っている顔を見ていたい。そう思ってしまったのだ。


「月人さん、私たちもトト様に聞きに行きましょう。私も、月人さんと一緒に行くことが出来るのかどうか。」

「本当に、良いのですか?人間の世界を捨ててしまうこと…」

「では!神である月人さんがご自分の世界を捨てられますか?私はこれからも月人さんと一緒に居たいと思います。ですから、私が元の世界を捨てるんです。後悔なんてしませんよ、月人さんの側に居られることが幸せですから」


息つく間もなく言い切ると、月人は驚いたのか小さく息を呑み、それから穏やかな笑顔で早苗の手をとった。


「分かりました。君が君の一生を俺のためにかけてくれるのなら、俺も俺の一生を持って君を幸せにしてみせます。行きましょう、トト・カドゥケウスの元へ」







_




_