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翌朝。
早苗は自室で目を覚ますと、いつもと同じように身支度を整えて、人間界から持ってきてしまった財布や音楽プレイヤーを持つと卒業式の会場である体育館へ向かった。手にはこっそり用意した「仰げば尊し」など、定番の卒業ソングの楽譜がある
体育館にピアノがあることは知っていたので、入退場には演奏させてもらおうと思うのだ。普通の学校ならCDを流したり吹奏楽部や管弦楽部が演奏するのだ、せっかくなら早苗からも神々に贈り物をしたい。
誰よりも早く体育館へ入ると、器具庫の奥に追いやられていたピアノを引っ張りだし、きちんと調律されていることを確認すると微笑んだ。譜面をおいて久々のピアノに気合を入れて指を乗せた。
慣れだとか習慣というものは恐ろしく、数年触っていなかった鍵盤でも止まらずには演奏出来る。自分が周囲に馴染めなくなるきっかけを作った音楽だけれど、今まで一度お嫌いになったことはなかった。それがまさかこんなところで役に立つだなんて思っていなかったが、早苗は今まで音楽をやめなかった自分を褒めてあげたい気持ちになっていた。
存分に指を慣らしておき、いざ卒業生入場の時には少しの緊張もなく演奏することができた。アポロンが驚いた顔でこちらを見ていたが、すぐにきりりとした顔つきに戻り、この一年での成長が見て取れる。結衣も他の神々も吃驚したような、そんなまさかというような顔をしていたが、次の瞬間には嬉しそうな顔になっていた。
卒業式は結衣と早苗とで用意した式次第の通り、滞り無く卒業生の退場で幕を閉じた。途端、体育館いっぱいに光が溢れたかと思うと、精霊の生徒たちの姿が消えた。
「今までありがとう、みんな」
保健室にかよっていたのは何も神々だけではない。怪我だったり小さな相談事だったりを言いに来ていたのは精霊の生徒も同じだ。消えていった光の粒に魅入られていると、いち早く少しの寂しさから立ち直った結衣が神々にいった。
「そうだ、ヘルメスさんにカメラを貰って、集合写真を撮りませんか?」
「しゅーごーしゃしん?妖精さん、それって面白いのかい?面白いのかな?」
「集合写真というのは、卒業式や遠足など行事の際に、クラスメイト全員が映った…えーっと、絵画を一瞬で描くようなものです」
早苗が近づきながら言うと、アポロンは目を丸くした。ディオニュソスも絵画を一瞬で描くなんて、と目を皿にしている。早苗はポケットから携帯を取り出すとカメラ機能を起動して、校庭の様子を映すと、驚く神々にそっと見せてみた。
「これも人間の技術ってワケ?面白いもの作るジャン、人間のくせにさァ」
「……実に興味深いな。」
「はい、それでは皆さんの写真も撮りましょう。結衣さん、皆さんを整列させてください」
「僕は妖精さんの隣がいいな、いいよね?」
はしゃぐアポロンを筆頭に、まだ蕾がつき始めたばかりだが、ほんのりピンク色になった桜の木の下に神々が整列していく。結衣と彼女をセンターにして並んだ9人の神々が綺麗に映るように、早苗はシャッターをタップした。
結衣のアドレスを電話帳に登録してもらい、必ず送るねと、出来るかどうかはわからない約束をして指切りをした。
「ところで、先生は元の世界に帰られるんですか?」
「…その口ぶりだと、草薙さんはギリシャ神話の世界に?」
「はい、アポロンさんと一緒に行きます。」
「そう…それじゃぁ、しっかり携帯は持って行ってね?写真送るから、腕の良い絵師さんに依頼して壁画にしてもらいましょう!」
結衣の両目からぽろっと涙が流れたが、はい!と元気に返事をしてくれた彼女の笑顔はとても美しい。そんな結衣の頭にアポロンの手が乗り、そっと撫でられているのを見ているうちに、早苗もだいぶ涙腺が緩んできた。
あぁ、これは泣いてしまう。そう思ったところに、早苗の頭にも同じように暖かい手が乗せられた。
「随分と悲惨な顔をしているな、反面教師」
「トト様…いえ、その……お二人が微笑ましいなと…」
振り返る前にかけられた言葉に、早苗は頬に伝う涙を無視して言い返した。目の前で恋人たちの仲睦まじい様子を見せられ、自分は好きな人と思いを通じ合うことも出来ぬままに帰ることが、突然辛くなっただなんて決して言うまい。
「貴様ら、学園長室へ移動しろ。帰り支度が整った者から、元の世界へと送り返す」
グズグズするな、私の手を煩わせるな、と最後までいつも通りに文句を言いながら神々を追い立てる様子に、早苗はちょっぴり笑顔を取り戻してトトの隣に立つことができた。
本当はトトと一緒に写真を撮りたい。元の世界に持って帰れなくても良いから、隣に立つ言い訳がほしい。そんなふわふわした考えをしている間に、一行はゼウスの待つ学園長室へとたどり着いてしまった。
「帰る順番を決めろ。私は最後に残る必要がある、貴様らから行け」
「それでは、俺たちから向かいましょう。」
誰かに言われるでもなく学園長室へ入っていく月人に、慌てて尊が続いた。そしてその後ろからウーサーとうさまろが追いかけていく。二匹とも尊が抱き上げたので、無事に向こうの世界で面倒を見てもらえるだろう。
「早苗先生、雑草、病気するんじゃねーぞ!」
「ウーサーは俺に任せてください。それでは、皆さんお元気で」
最後に少し振り返った二人の姿を隠すように扉が締まった。思ったよりもあっさりした別れに、後追いで涙腺が緩んでいく。続いてロキがバルドルとトールを引っ張って学園長室へと入っていき、因幡の白兎もどきも共に北欧神話の世界へと帰っていった。
最後に残ったギリシャ神話の3柱とエジプト神話の2柱、そして結衣と早苗はお互いの顔を見合わせた。トトが最後に残る必要があるということは、ギリシャが人間界の者が帰る必要がある。
「私…いえ、きっと他のクラスメイトの皆さんも、心配なんてしていません!」
「え?」
「矢坂…早苗先生とトト様のこと、本当は皆さん応援していたんですよ。私がギリシャ神話の世界に行けると聞いて、早苗先生もエジプト神話の世界に行くのだとばかり思っていたくらいに。」
結衣はそれだけ言うと、アポロンの手を引いて学園長室の扉を開いた。
「だから、私たちが先に行きます。トト様、アヌビスくん、どうかお元気で」
「矢坂、健闘を祈る」
「先生だったら大丈夫だよ、じゃぁね。ワイン飲む時にはオレのことも思い出してよ」
「ハデスさんもディオニュソスさんもお元気で!アポロンさんはく…結衣さんのこと、お願いしますね」
「もちろん、もちろんだよ!」
結衣に引っ張られるアポロンと、それを追いかけるように入っていったハデスたちを見送ると、早苗も学園長室の扉に手をかけた。
これ以上ここに居たら、言わなくていいことまで言ってしまいそうだったし、余計な考えが浮かんできて心臓がはちきれてしまいそうだ。ようやく元の世界に帰れるというのに、ここで心臓破裂で倒れてしまっては笑えない。
早苗は片手を扉にかけたまま半身で振り返ると、トトを真っ直ぐに見て言った。視界がぼやけているのは、きっと窓から差し込む柔らかい日差しのせいだろう。
「トト様、短い間でしたが大変お世話になりました。」
「カーバラ…(シャナ、元気でね…)」
アヌビスは両手で涙を拭うと泣き顔を見られたくないのか、廊下の向こうの方へと走り去ってしまった。寂しい気もするが、これで躊躇いなく扉をくぐれる。そう思って扉に向き直った体は、1秒と待たないうちに再び廊下側へと振り返る体勢にされた。同時、唇が塞がれる。まさか別れ際にこんなことをされるとは思ってはいなかった。思わず固まる早苗の耳元で、トトが小さく呟いた。
「死後は日本ではなくエジプトの冥府へくると良い、あの根暗が良いのならギリシャでも構わんが」
「トト様…」
「行け。今なら貴様を見送ってやらんこともない」
「…っはい!また、お会いしましょう!」
早苗は柔らかく残った唇の感覚が消えてしまわないうちにと、学園長室の中へ駆け込んだ。
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