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そもそもの問題なのだが、早苗には特に医学の知識はない。なのに何故保健室の先生などという漫画やなんかでは美味しい立場に収まってしまったのだろうか。これもご都合主義というやつだろうか。
自分の人生にこんな都合の良いことが起きるなんて思ってもみなかったが、今日はまだ日曜日。とりあえず図書室である程度の神話と保健の知識から身につけようと、早苗は気に入った私服に袖を通すと簡単に食事を作り、図書室へと足を運んだ。勉強が終わったら日当たりの良い中庭あたりでお昼にするのも良いだろう。

元の世界から早苗本人と一緒に運ばれてきたと思われるものは、着ていたパジャマ…ではなく何故か普段会社に着て行っていたスーツと下着類、それからスマホと音楽プレイヤー。ヘッドフォン。財布。
本当に必要最低限のものしかなく、この神様が創りだした世界で財布が役に立つのかは分からないが、ともかくそれだけのものしか早苗は持ち合わせていなかった。他に持っているべきは知識である。無知なるは罪なりという格言もあるくらいなので、きっとトトも教えてくれるだろう。
早苗は軽い足取りで図書室へと向かう途中、なにやら購買のような場所を発見した。幾人かの人が食材や文房具を並べている。


「あの、すみません」

「へい、らっしゃい!」


下町の八百屋かと聞きたくなるような受け答えをしてくれた購買部の人に、ルーズリーフとシャーペン、シャー芯があるか尋ね、お金は特に必要ないと袋にいれて押し付けられた。なるほど、この購買部は購買というよりも某黄色い猫耳ロボット四次元ポケットに近いようだ。


「入用なものがあれば、あそこの注文用紙に書いておくれよ!」

「はい、お気遣いありがとうございます。」


勉強に必要そうなものを手に入れた早苗が図書室へ到着すると、先日の威嚇してきた少年が出入口に立っており、オロオロと両手を彷徨わせていた。何やら泣き出しそうな顔をしているが、昨日の様子から考えると早苗が話しかけても怒らせてしまうだろう。
早苗はある程度の距離を保ったままで、


「あの!」


声をかけてみたところ


「カ〜…!」


何故か感激したように少年に両手を振られてしまった。
近づいても大丈夫だろうかとゆっくりゆっくり近づくと、少年は早苗の持っていたお弁当の入った袋を見て目を輝かせている。


「…お腹、空いているのなら、食べますか?」

「カー!」

「サンドイッチしかありませんが…」


お弁当の中身を半分手渡すと、少年はくんくんと匂いを嗅ぐと悪いものでないと把握したのか、パクリとサンドイッチに噛み付いた。可愛らしい様子に頭を撫でたくなるが、流石に怒られそうなので彼が食べ終わるのを見届けると、早苗は図書室の中へと足を踏み入れた。

中では窓際のテーブルに本の防護壁をつくりあげたトトが読書をしているようで、ブツブツと何か読み上げているのが聞こえた。邪魔しては悪いなと小さく「おはようございます。」とだけ言うと、早苗も本棚の上の方についているプレートから神話のコーナーを探し出し、何神話から手をつけるか悩んだが、教師同士一番関わりが多そうだということでエジプト神話の本を、それから知識が薄いと自覚している北欧神話の本をとりだした。
入門編を一冊と解説書、それからただストーリーが書かれた物語のような本。もとからある程度の知識は一般教養としてもっているが、改めて読みなおしておいたほうが良いだろう。
エジプト神話は信仰された土地が広大であったこともあり、同じストーリーのはずなのにいくつかの展開があったり、それがさらに時代によって少しずつ変わっていったりしているのだ。特に神官たちは自分たちの地域の神様を崇めて持ち上げて持ち上げて、どれだけ偉く出来るかを競い合っていたようなものなので、神話の捏造が多かったりするのだ。
他の国のように、他地域の神様を卑下して貶めてしまうようりも余程信仰心に溢れているが、神話変えてしまって良いのだろうか。早苗はまずエジプト神話における世界創造の部分から人物の相関図を作りながら勉強に着手した。





学校のチャイムにふと顔をあげると、どうやらお昼の時間になったようだった。トトはまだ本の防護壁を片っ端から目を通して崩している最中で邪魔をするのは宜しくなさそうだ。


「70Kgの人体を分解した場合には酸素45.5kg、炭素12.6kg、水素7.0kg、窒素2.1kg、カルシウム1.05kg、リン0.7kg等の物質が得られ…」


何やら人体に関する本を読んでいるようだが、人間と愛を理解するために必要なのだろうか。テーブルの反対側にいる少年が楽しげにトトを見つめているが、トトの方は眼中にないらしい。二人に声をかけるのもはばかられるので、早苗は一人中庭に出て昼食をとることにした。

サンドイッチの半分は少年にあげてしまったので、購買部に立ち寄るとパンと飲み物を調達した。中庭の大きな木の木陰に入り込むと、春先のような心地良い風が吹き抜けて適温だ。
学校を卒業してから久々に勉強をしたせいか、頭がパンク寸前のような気がする。サンドイッチを口にふくむと、いつもよりも美味しく感じられた。


「あっれ〜、そこの子猫ちゃん、見ない顔だねェ?」

「え?」


頭上からの声に顔を上に向けると、木の上で誰かが寛いでいるようだ。木漏れ日の逆光で見難いが、長い赤髪とワイシャツにベストのような格好であることは見えた。


「はじめまして。私は矢坂早苗と申します。貴方はここの生徒さんですか?」

「ふーん、シャナっていうんだ、聞いたことないなぁ。オレはロキ。北欧神話の世界から来てるんだ。」


北欧神話の男神らしい彼はするっと木の下に降りてくると、早苗の隣に座り込んでサンドイッチに手を伸ばした。お腹が空いているのだろうか。真っ赤な髪の毛の彼は泣きぼくろが3つ並んだ特徴的な面立ちをしていて、造形も息を呑むほど美しい。神様だから当然なのかもしれないが、今まで見てきたトトも少年も美しさよりも威厳と可愛さが勝っていたので造形まで気がいっていなかったのかもしれない。


「んー、おいしぃ〜♪」

「お口にあって良かったです」

「シャナセンセが作ったんだ、このお弁当?」

「はい。…というか、先生?」

「だって、先生なんでしょ?オレに生徒かって確認するくらいなんだからさァ。シャナセンセは何の教科担当してルの?面白い授業してくれるならガッコ行っても良いかも☆」


そうだ、と早苗は頭を抱えたくなった。北欧神話のロキといえば通称トリックスター。発明王でもあるがその発明もイタズラのために行っていたような、そんなちょっぴりたちの悪い悪神でもある炎の神様ではないか。
よりによってコイツに気に入られたのか…と思いながら、早苗はロキに保健室の先生であるということを伝えた。


「へ〜!じゃぁやっぱり授業なんてつまらなそうなの出るのやめて、シャナセンセの居る保健室に登校しようかなァ♪」

「体調が悪いとか、ちょっと愚痴を聞いてくれとかなら来ても構わないけど、授業も少しは出てくださいね。私がトト様に怒られてしまいます」

「あれ、頭ごなしに止められるかと思ったんだけど…アンタ意外と理解あるねぇ」


こんな問題児に気に入られても困るだけな気もするが、往々にして保健室の女性教師というのは問題児に懐かれるものである。そう納得して早苗はロキとゆったりとしたお昼休みを過ごし、昼休みが終わる鐘の音で慌てて図書室へ戻ることになった。
帰りがけ、ロキがなにか投げてよこしたものをキャッチすると、ピンクの包装紙に包まれた飴玉だった。また明日ねーと去っていくロキはさっそく保健室登校するつもりだろうか。なんだか心配になってきた早苗はロキに関する神話も読んでおこうかと、午前中手の付けられなかった北欧神話、別名ゲルマン神話の本たちに思いを馳せながら図書室へと足を向けた





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