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翌日、昼休みにやってきたトールは「19時にお月見をした広場へ行ってくれ」と言い、早苗に頑張れと激励を送ってくれた。早苗は妙に緊張して落ち着かない心臓と、そわそわと違和感がある手のひらをどうにか収めると、早苗は放課後までをこわばった表情で過ごした。

そして放課後になった頃には緊張しすぎで頭がクラクラし、本当にこれでロキとしっかり話が出来るのだろうかと不安になってきた。もとより何を伝えるべきなのかもよく分かっていない。それに顔を合わせたロキが帰ってしまう可能性もある。空を飛ばれてしまったら、早苗では絶対に追いつけない。
不安も心配も消えないが、ともかく時間までに指定の場所へ向かわねばと早苗は保健室を後にした。ウーサーとトッキーには留守番を頼み、「利用不可」のプレートを出して校舎を出て行く。

トールに指示された場所に着くと、とりあえず木々の影に姿を隠した。これもトールの指示だが、待ち合わせ場所に早苗が居ると気づかれない方がロキも来やすいだろうとの配慮だ。
蚊に刺されないか心配になりながら待っていると、遠くからバルドルとトールの名前を呼びながらロキがやってきた。どうやら3人で話をしようとでも言って呼び出したようだ。


「バルドルー、トールちーん。どーこー?」

「ロキ、さん」


早苗が名前を呼んで姿を見せると、途端にロキは驚いた表情とそれから辛そうな表情とを器用に同時に表現してみせた。やはり会いたくなかったかとショックを受けていると、彼はそのままくるりと反転してしまう。
慌ててもう一度名前を呼ぶと、なに?と存外冷たい声が返ってきた。


「ロキさんと、お話がしたいんです」

「オレには話すことなんて無いんだけど?」

「どうして保健室に来なくなったんですか?」

「知らない。オレ帰るから」


一度も振り返ることなく歩き出してしまったロキに、慌てて駆け寄る。が、それ気づいてしまったらしいロキはさっさと足を動かすとどんどん離れていってしまう。
心臓を鷲掴みにされるとはよく言うが、本当に潰れそうな程に痛んだ。このままでは本当に、卒業までロキとしっかり会えないし話せなくなってしまう。


「待ってください!」


運動不足が祟って学生時代のような速度は出ないものの、学園へ戻ろうとするロキに必死に追いすがった。後ろに靡いていた三つ編みに手が触れ、そしてどうにか服の裾を掴むことに成功した。


「ついてくるなよ!」

「待ってって言ってるのに!」


怒鳴って振り返ったロキに、顔を見るのが怖くてそのまま思いっきり抱きついた。顔のすぐ上で、息を呑むおとがした。
早苗はロキの背中に回した手で服をぎゅっと掴むと、逃すまいと腕に力を込めた。やはり嫌われているのだろうかと、涙がこぼれてくる。


「なんで、なんで保健室に来てくれなくなっちゃったの?人間は嫌いだから?臨海学校で水着着なかったこと怒ってるの?」

「…そんなんじゃ、ない」

「私のことは嫌ってくれて良い。だって騙してたことになるんだから。でもお願い、人間のことは嫌いにならないで…ロキさんが卒業出来なくなっちゃう」

「馬鹿だろあんた!!」


怒鳴り声とともに、早苗の背中にも腕が回された。何事かとロキの顔を見上げようとしたが、すぐに頭の後ろを押されて胸板に埋められてしまう。その頭の上に、カシャンと何かが落ちてきた。視界に映ったのは留め具が外れてしまったチョーカー----ロキのつけていた枷だった。
苦しげな呼吸が聞こえ、鼻をすするような音が聞こえ、もしかしたら彼が泣いているのかもしれないと思いあたった。


「卒業なんてしたくない。シャナの居ない世界に戻るくらいなら、他の神々を巻き添えにしたって構わない、この箱庭の世界を終わらせたくない。なのに、あんたと一緒に居る程、枷の力が弱まるのが分かったんだ…」

「私だって、お別れするなんて嫌です!でも、一緒に居る間話せないのは同じくらい辛い!」

「…シャナが人間でも神様でも、オレ…多分好きになってた。」


すっと体が離されて、視線が絡む。ロキの目元にも僅かに涙が見えて、早苗はそれを親指の腹で拭ってやった。すると今度は反対に早苗の涙をぬぐうべく、ロキの唇が目元に触れてくる。
何を言われているのか一瞬理解出来なくて、ただ泣いてほしくなくて手を伸ばしたが、同じように涙を拭われて大変なことに気がついた。


「えっと……ロキさん、今…なんて?」

「っ…シャナってほんと真面目ちゃんで天然。いいよ、言ってあげる。オレはシャナが好き。人間でも神でも、どこの国の生まれでも。」

「…人間でも、いいんですか……?」


嬉しいはずなのに、素直に認める言葉も私も同じだと返す言葉も出てこないのが情けない。それでもロキはそっと頬を撫でて、人間でもいいと返してくれる。


「私の知ってる神話では、ロキさんにはちゃんとした奥さんが居ました…旦那さんも。」

「いーじゃん、神話なんて書き換えちゃえば!オレが欲しいのはシャナだけだし、他の女なんて要らない。」


まして旦那とか超要らない!といつもの調子で付け加えたロキに、思わず笑みが零れた。
笑いが落ち着くと顔を包むようにロキの手が添えられて、早苗は何事かと目を合わせた。するとそのままこつんと額がぶつけられて、鼻が掠め、そして唇が触れ合った。何度も触れ合うそれに、早苗は素直に唇をうっすら開いた。そのまま下唇を味わわれ、舌を吸い上げられる。体の余分な力が抜けていき、息を荒らげる程のキスが終わると早苗はロキに全身を預けることになってしまった。まったく情けない大人であるという自覚はある。
キスは始めての経験でもないのに、今までされたどんなキスよりも、今したキスで心が満たされるのを感じた。


「逃げて、ごめん。シャナのところで勉強しなければ、枷が外れなくて卒業せずに済むと思ったんだ」

「なるほど…全員が外れなければ卒業出来ない、そういうルールですもんね」

「あっれー、さっきはあんなに砕けた話し方してくれたのに、まぁた敬語に戻ってるしィ」

「え、でも…その、身分的な何かを感じるといいますか…突然変えたら周りの方に筒抜けといいますか…」

「今さっき身分とかそういうの関係ないって言ったばっかだし。しかも多分オレたちのこと気づいてないのアホロンとアヌビスくらいでしょ」


普段教室に居ないからバレてなど居ないと思っていたが、まさかそこまで筒抜けだとは。早苗は愕然として目を見開いた。教師が生徒に恋しているなど、そんなフィクションでよくある展開がバレていたなど、職務停止になりかねない失態だ。
そんなようなことを早苗が口にすると、ロキはまた盛大に笑ってみせた。からかわれているのだとしても、とにかくロキが笑ってくれたのならそれで良いような気がする。これは末期症状だと、早苗はもう一度ロキにぎゅっと抱きついた。


「さて、一緒に帰りましょうか、オレのお姫様?」


言いながらロキは外れてしまったチョーカーを早苗の首に付け直した。あげる、と言われて顔に熱が集まるのが分かる。


「姫とかっ、そういうのやめてください、恥ずかしいです」

「じゃぁ子猫ちゃん?ハニー?お嬢様?それともベイビーとかどう?」

「全部却下です!」

「ニヒヒ、はいはい、照れちゃってかーわいいっ」


離れた体は寂しいような気がしたが、すぐに手が繋がれて指がからみ合って、離すまいというほど近づいて歩き出したロキに、早苗は心のなかで「大好きです」と呟いた。




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