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翌日から、ロキは保健室へと顔を出さなくなった。ロキが来なくなってもうすぐ2週間になるが、白兎も造り主であるロキの心情を知っているのか、どこかへ出ていったきり戻ってこない。数日前に顔を出した月人によれば、ロキは授業にも出ていないらしい。
いつもならロキやバルドルが来てお茶を楽しんでいた放課後は、とても静かになっていた。


「今日はどうしようか、ウーサー。」


ウーサーを抱き上げて問いかけると、鼻先ですんすんと目元を嗅がれ、泣いていないか確認されているようだった。ゼウスがくれたというウーサーは本当に賢い。
心は少しだけ紛らせたが、神々について学ぶというのもやる気が起きない。何もすることが無い放課後というのは始めてで、何をして良いのかさっぱり分からなかった。


「神様と人間が結ばれるお話って、聞いたこと、ある?」


シンデレラも身分違いの恋だったが、あれは同じ人間同士。アポロンとカサンドラだって結局は悲愛のお話だった。やはり人間と神という壁は超えられないのだろうか。

別にロキと恋人になりたいわけじゃない。ただ彼が保健室へ来て楽しげにお茶をして、嬉しそうに勉強をして、そして満足気な表情で帰っていく。それが嬉しかったのだ。それ以上はいらない。
バルドルと二人で元気にやっているならそれはそれで良い、ただ少しだけでいいから顔を出して欲しい。それとも、やはり人間である「矢坂早苗」のことは嫌われているのかもしれない。ロキがあそこまで笑顔を見せて一緒にいてくれたのは、早苗がロキの中では神様だったからで、決して「矢坂早苗」が好きだったわけではない。


「寂しい、ね。こんなに、好きになるんじゃなかった。」


今度こそ零れてきてしまった涙を、ウーサーの鼻先が拭っていく。

ただ、もしかするとこれで良かったのかもしれない。
元の世界での早苗は社会人であり任された仕事がある。それを放り出すわけにも行かないのだから、必ず帰らねばならないのだ。その時になって大好きな人とお別れする辛さを味わうよりも、今から卒業まで時間をかけてロキとお別れする覚悟を決めていく。その方が良いのかもしれない。
早苗はそっとウーサーを抱きしめ、寄ってきたトッキーに頬ずりをして泣いた。










「ねぇ、ロキ。本当に良いの?」


バルドルは北欧神話の3人が暮らす寮の部屋で、なにやらイタズラ道具を作っているロキに問いかけた。


「何が?」


この部屋はリビングのような場所があり、室内の階段を上がって2階に行くと各自の個室がある。3人はいつもこのリビングでお茶をするのが日課になりつつあった。つい先日までは保健室で行われていた、あの時間だ。
バルドルはロキが問いの意味に気づいてはぐらかしているのだろうと予想し、もっと直接的に聞くべきだと判断した。


「矢坂先生のこと。」

「………シャナセンセが、どうしたの?」

「会いに行かなくて良いの?」

「いや、だから、なんで?シャナセンセに会いに行く理由がないジャン。トトセンセから宿題も出てないしィ?」

「宿題がなくても、いつも行ってたじゃない。早苗さん、寂しがってるんじゃないかな」


バルドルが下の名前を口にした途端、ロキはがばっと立ち上がった。敵意すら見える視線が投げられて、いくら万物に傷をつけられないバルドルでも思わず腰が浮きそうになる程、底冷えした目。おおよそ炎の神とは思えない。
ロキは作っていた道具を床に置くと、バルドルを見つめたままで言う。


「なんで、バルドルがシャナを名前で呼んでるの?」

「今日のロキは『なんで』ばっかりだね。駄目だったかな、早苗さんには嫌がられなかったんだけど」


今度はロキの右手の拳がテーブルを叩きつけた。見ているこちらが痛いくらいの音がする。


「あいつに近づくな」

「どうして?早苗さんに色々教わっているから、わたしたちの卒業も近づいているのに」

「……アイツは…シャナは、人間の世界に帰らなくちゃならないだろ!だったら、オレは卒業なんかしない。会えなくても、アイツとずっと違う世界で生きていくよりよっぽどマシだ!!」


バルドルは視界の隅に居たトールが目を見開いたのが見えた。もちろん、バルドルも同じように驚いた顔をしているだろう。今までずっとバルドルとトールにしか関わりを持とうとしていなかったロキが、こうして人間の女性一人に別れたくないという思いを持っている。それがどれだけ大きな出来事なのか、バルドルにはよく分かっていた。
ロキが早苗に会わないのはお別れしないためだと言う。別れないために卒業したくない。卒業したくないから会いに行かないし勉強もしない。なんと悲しいことだろうと、バルドルは眉を下げた。


「でもね、ロキ。早苗さんとそのことを話したの?彼女は優しいから、ロキが会いたくないなら会わない、だなんて悲しいことを言うと思う。」

「……そうだな。あいつは自分を犠牲にすることを厭わない。」

「トールちんまで……。でもオレは…シャナが人間だって知って、一瞬…一瞬だけ『うわぁ、最悪だ』と思ってしまった」

「それは、大好きな人が人間だったからでしょ?人間相手でも、好きになってしまったのならしょうがない。わたしは、そう思うけどな」


ロキは少しだけ瞳の奥を揺らしたが、すぐに道具を拾い上げると個室に戻る階段に足をかけた。


「ともかく!!オレは明日も学校行かないから!」


盛大な音をたてて閉められた扉にバルドルが肩をすくめると、トールは深い溜息をついた。こういうのを「年頃の息子をもった母親の気持ち」というのだろうな、とバルドルは笑う

ロキが本当に早苗が好きだと、神だ人間だなんて考えを捨てて愛を伝えられた時、枷が外れて卒業の資格を得るのではないかとバルドルは予想している。だがそれは、二人が両思いになった時に卒業の、別れの目処がたつということだ。
難しいね。そう呟くとバルドルは残った紅茶を口にした。













第13話、終。














2014/06/18 今昔
タイトルの「アウストリ」とは北欧神話に出てくる東側を司る妖精のこと。つまり意訳すると日本生まれの意味。




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