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放課後になるとロキがいつもの日課もかねて保健室へやってきたが、バルドルがまたぐっすりと眠ってしまっていたため、早苗は始めて他人を私室へ招き入れることになった。バルドルが目覚めたらすぐに分かるし、何より保健室の利用者が居る状態で何処かへ行くこともできない。
ロキは早苗の部屋に入ると、物珍しそうに畳に指を這わせ、それから見慣れた洋室と見知らぬ和室が混じった様子に感嘆の息を吐いた。
「へぇ〜、畳って本当に草が編んであるんだ」
「えぇ、そうですよ。日本で使われている伝統的なもので、イグサという草を編みこんで作ってあるんです。和室…日本の伝統的な部屋では、床一面に敷かれています。地方によって少しずつ大きさが違ったり、畳だけでもちょっとした歴史があるくらいです。」
「シャナセンセってば相変わらず詳しい〜」
ロキは畳を満足するまで観察すると、部屋の真ん中に置かれたテーブルへついた。いつものように紅茶おお茶菓子をだし、心理テストの本を読んだり、各国の昔話について深堀りをしていく。
神様の感性というのは人間と違うらしく、「カチカチ山」を読んだ時も、何故タヌキはおばあさんを殺す必要があったのかと、真剣に話し込んでしまった。
ついでにトトから出されたという宿題の面倒をみていると、ロキはふっと早苗のベッドサイドへと目をやった。そういえば誰も部屋に入れないので忘れていたが、現世から持ってきてしまった財布やmp3プレイヤーが置きっぱなしだ。
手先が器用でなんでも作れてしまう彼のことだ。見知らぬ機械が気になったのだろうと、早苗はテーブルにプレイヤーを置いた。
「シャナ、これは?あ、なんか点いた。」
「この機械と、この細長いものがあれば、どこでも音楽を聞くことが出来る機械です。」
「人間の機械なの?面白いねェ、分解してみてもいい?」
「……完璧に元に戻せるなら良いですけど…」
ひっくり返したり、前面のパネルをいじってみたり、やはりロキは興味が尽きないようだ。神々にも好みがあるのだから、興味がもてる分野から学んでもらえば良いのに、とここには居ないトトとゼウスを思って、早苗は小さくため息をついた。
ロキが適当に流し始めた曲はカウント・ベイシーのジャズで、旋律が気に入ったのか、音楽に合わせて指先がとんとんと机を叩いた。
「やっぱこれイイねェ。分解したい。それから自分で作りたい!」
「…元に、戻せます?」
「なんで?直せなかったらヘルメスの購買で買えばいいジャン」
「いえ、私が唯一元の世界から持ってこれたものなんです。使えなくなるのは、少し寂しいです」
言うと、ロキはぎょっとした顔で早苗と視線を合わせ、それから頭の先から足の先までじっくりと舐めるように見た。それから大きく口を開け、大声を出すのを堪えるように口を手で覆った。
それからそっとプレイヤーを机に戻すと、居住まいを正してもう一度視線を合わせてくる。早苗は唖然としたままその視線を受けた。
「シャナ…って、もしかして……さ。人間、なわけ?」
「え?はい、そうですが…」
「…う、そ……だろ?」
「いえ、私は人間です。草薙さんと同じように人間の代表として、草薙さんのフォローをするためにここに呼ばれました」
そこまで言ってから、はたと早苗は気づいた。
そういえば、ロキと始めて中庭で会い自己紹介をした時もこの学校の保健医であることくらいしか言っていないし、彼は早苗が飛べないと言った時もとても不思議がっていた。もしかしなくても、彼はずっと早苗のことを日本から来た神だと思っていたのだろうか。
だとすると、結衣には冷たく当たるのに早苗には懐いた理由もよく分かる。人間は嫌いだが、自分と同じ神なら好き。そういうことなのだろう。
「うっそ……だって、シャナが一番先生らしいし神様らしいのに…人間?」
「ロキさん……」
「…悪い。こっち、来んな」
ロキはまるでこの世の終わりがやってきたと言わんばかりの顔で、音を立てて椅子を倒す勢いで出て行ってしまった。早苗は倒れた椅子を直して保健室へ出てみると、物音で目が覚めたらしいバルドルしか居らず、ロキはもうどこかへ行ってしまった後のようだった。
バルドルは不思議そうな顔でこちらを向くと、小首を傾げた。万物を惹き寄せるというには納得の穏やかな雰囲気に、早苗は鼻の奥がツンとして涙が溢れるのを感じた。
「どうしましょう、バルドルさん…私、ロキさんに嫌われちゃった。」
「矢坂先生……いや、早苗さん。何があったのか聞いても良いかな?」
先生ではなく名前を呼び直されて、まるで元の世界での友人たちに話すかのように、早苗は床に崩れ落ちると何があったのかを話した。
ロキに人間であることを確認されたこと。彼は恐らく早苗を神様だと勘違いしていたこと。そして人間であると知って驚き、ショックを受けた様子でどこかへ行ってしまったこと。
バルドルはそれを聞くと、悲しげに微笑んでベッドを降りると、しゃくりあげて動けずに居た早苗の頭を撫でに来た。成人してもう大人だと思っていたけれど、こんな風に泣いてしまうだなんてまだまだ子供だ。
教師なんだから、私がしっかりしていなくちゃ。私が皆の心の拠り所で居なくちゃ。ずっとそう思ってきたはずなのに。今ばかりは泣きながら、過呼吸になりそうなほどしゃくり上げながら、早苗は途切れ途切れでも必死に伝えた。
「ロキは、気づいていなかったんだね。」
「そう、なんです。…私が人間だから……やっぱり神様に好きになっちゃいけなかったんです!バチがあたったんだ。」
「そうじゃない。そうじゃないよ、ロキは確かに早苗さんが人間だと気づいていなかったかもしれないけれど、まだ大きなことに気づいていない」
バルドルはふんわりと笑うと、小さい子供に言い聞かせるように言った。
「早苗さんが本当は強がりだっていうことと、愛してしまったのなら神も人間も関係ないっていうことに、ね。」
バルドルは泣き腫らしてしまったら大変だと、すっかり把握しているらしい保健室の中で蒸しタオルを作ると早苗に手渡してくれた。足元に、使い魔のウーサーがやってきたのが分かる。
その様子を見たバルドルが安心したように微笑んだので、早苗はお礼を言うともう一人で大丈夫だからと彼を部屋へ送り返した。何より、ロキだってショックを受けている様子だったのだから、バルドルに戻ってもらう方が良いと思ったのだ。
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