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乱暴に足音をたてて扉が壊れそうな勢いで出て行ったロキを見送ると、早苗はどうしたものかと紅茶のカップを片付けに立ち上がった。ロキのカップからはお茶は全く減っておらず、テーブルの上に鎮座している。
殺す、とは一体どういうことなのだろうか。ロキがバルドルを殺す。あの口ぶりでは殺さなくてはならないと言っているようなもので、こちらの世界に来てからずっと勉強していたが、北欧神話の内容に関係があるのだろうか。

神話は古い言葉で書かれていることも多く、また起こった事実を書き記すものなので、その時神々が実際に何を感じ何を思って行動したのかまでは読み解くことが難しい。北欧神話の中身よりもずっと中の良さそうな二人に、ロキによるバルドルの殺害は実際には起こらないのかとも思っていた。

トールは一口二口紅茶を飲むと、早苗に向かって座り直した。


「……ロキは、自分から決して語ろうとはしない。あれだけの言葉でも、俺以外に口を開くのは凄く珍しいんだ。だから…」

「私もこの箱庭に来てから、神々について学ぶべく、神話の勉強をしています。その中で、ロキさんがバルドルさんを殺す節があるのも知っていました。」

「……本当にそうなるようには、見えなかったのか?」

「えぇ。だって、ロキさんはとてもバルドルさんのことを好いているように見えて…。神話とは間違った伝わり方もしますから、そのせいなのかと思っていました。ただ、ロキさんが辛いなら、少しでも助けて差し上げたいと思います。」


カップを片付ける早苗の言葉に、トールは少し考える素振りを見せると、思い切ったというように言葉を紡いだ。


「…もし、ロキやバルドル、俺たちの暗い面を知る覚悟が本当にあるのなら、追いかけてやってくれないか。」


神話は常に昼ドラよりもドロドロだ。ただ、あの二人の間にあるものがそんな生易しいものだとは思わない。真面目なトールが言うことだから、本当に知ったらショックを受けるような内容なのだろう。
ただそれでも、例え絶望するような内容だったとしても、それを今背負おうとしているロキや、それからバルドルとトールの力になりたいと思う。何より周囲に対していつも明るく調子よく振る舞える彼が、取り乱す程のことなのだ。誰かに話すことで軽くなるかもしれないし、出来るならロキの負担を少しでも代わってあげたい。


「私、行って来ます。バルドルさんのことはお願いします、保健室のものは好きに使っていただいて構いません。」


早苗はそれだけ言い残すと、トールの返事も待たずに保健室から飛び出した。




早苗が出て行った保健室でトールは一人考えた。
ロキは恐らく早苗を好いている。あの人間は嫌いだと言っていたロキが、だ。もちろん、それほどに早苗が魅力的な女性であるということにはトールも頷けるが、果たしてそれだけでロキが「バルドルを殺さなくてはならない」ということを口にするだろうか。それほどに惚れ込むだろうか。
かくいうトール自身も早苗にロキのことを任せてしまっている。教師と生徒という面においては、ロキと同じかそれ以上に彼女への信頼を寄せているのだろう。過ごした時間であれば、同じ教室に居る結衣の方が圧倒的に長いはずなのに、何が違うというのだろう。


「……難しい、問題だな」


深く息を吐くと、保健室の扉を器用に開けて出て行った因幡の白兎を見送ってから、トールは思考を休ませるべく目を閉じた。






校舎の中を走り抜ける。もう午後の授業が始まってしまっているので、早急にロキを探しださなくては、またゼウスの雷が落とされるかもしれない。今そんなことをされてしまったら、本当にロキが卒業のきっかけを逃してしまうような気がした。
ふとそこで早苗は足を止め、今自分が何のために走っていたのか思い出してしまった。


(ロキさんを……卒業させるため…?)


ロキを卒業させるということは、人間について理解させるということであり、そして早苗や神々、結衣が元の世界に戻るためのことだ。つまり、早苗がもし順調に神々の枷を外せたら、元の世界へ戻ることになる。
今早苗が「ロキのために」と思って走っているこの行為こそが、彼との別れに向かっているようなものなのだ。

いけない。と、早苗は頭を左右にふって余分な思考を切り捨てる。今は約半年後のお別れよりも、ロキが辛くならないようにしてあげることが先決だ。
教室の前を走りぬけながら見ても、帰宅部の部室にも、それから屋上や中庭、寮の方にも見当たらない。ふと視界の隅に何か映ったかと思うと、保健室に居るはずの因幡の白兎もどきが中庭から校門の方へと駆け抜けていくではないか。


「因幡!待って!」


ロキに貰ったものを無くしたくない。そう思って因幡の白兎に駆け寄れば、まるで付いて来いとでも言うかのように一度振り向き、そしてまた校門の外へと走りだした。白兎が走って行く方向に視線を向ければ、大分遠くの方ではあるが赤い髪の毛が揺れているのが見える。
驚いて白兎を見やれば、どやぁと自信たっぷりに胸を張るような仕草をして、また全速力で走りだす。早苗も高校を卒業してから運動不足の体に鞭打って、出来るかぎり早い速度で走りだした。

遠足で来た草原を抜けて、お月見をした森の側を通って、それでもまだロキとの距離は縮まない。白兎は早苗の歩みが遅いのが気に食わないのか、振り返って地団駄する回数が増えてきた。
早苗のふくらはぎが限界になった頃、視界は開けて、臨海学校でもやってきたあの海辺についた。慌てて見回すと少し離れた場所に立っているロキを見つけ、駆け寄っていく白兎の後を追いかけた。

午後の授業が始まった後くらいに学校を出たため、この季節ではもう空が赤くなってきている。ロキは無言で空と同じように赤くなりつつある海を見つめていて、表情は無い。
足元に擦り寄った白兎に気づくと、寂しいような優しいような笑顔を見せて抱き上げ、早苗に向き直った。


「どうして来たのさ。ここまで来れば…あんたも追いかけてこないと思ってた」

「話を、したかったからです。ロキさんの話が聞きたいし、私のことも聞いて欲しい」


ロキはしばしこちらをじっと見ていたが、砂浜に腰を下ろした。秋の冷たい海風に髪の毛を靡かせながら、座らないの?と問うてくるので、早苗も遠慮がちに座った。微妙に空いてしまった二人の間に、ロキの膝から降りた白兎がちょこんと座る。
彼はその頭をそっと撫でながら口を開いた。


「シャナは、オレたちが居る北欧神話についても、勉強してたんでしょ?」

「はい。…その、ロキさんがバルドルさんを殺そうとし、実行して成功してしまうことも…」

「その理由は?」


早苗はロキがこちらに視線をくれているのを感じ、首を左右に振った。神話の中で起きた出来事の裏側は、なかなかうかがい知ることが出来ない。ロキが本当は何を考えてバルドルを殺すのか、それは神話には描かれていないのだ。
特に北欧神話は他国との争いでギリシャ神話信仰へと変わっていった地域のもので、時の政権が書き換えていったとも考えられる。さらに旧と新の二種類が存在し、中身も若干違う。


「バルドルは光の神だ。光あるところには必ず闇がある。光が強ければ強い程、闇もまた深く濃くなる。バルドルは万物を惹き寄せる光の神であると同時に、世界を滅ぼす力を持った神でもあるんだ」

「…バルドルさんは、人間にも戦士の神として信仰されている場合があります。そこから来ているのでしょうね」

「バルドルの力は大きすぎて、本人にもコントロールしきれていない。ちょっとした感情の昂ぶりで力が暴走してしまうんだ。世界を滅ぼせる程の力が溢れでてしまうまで、時間がない。」





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