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もう何回目になるだろう。早苗はふと考えた。

季節は五月、それぞれの神話の文化について相互理解を深めようと、結衣と早苗は文化祭を開催する予定になっている。日本では珍しいカラっと晴れた空に、アヌビスと一緒に作って飾った鯉のぼりが揺れる。窓から見る景色は何度見ても同じようで少しずつ変わっているようにも思う。


「わたしの記憶がなくても、失敗することは分かったから、あとは…何をしよう」


十三回目、トトのみが記憶を持ち越したあの時も結局はバルドルの暴走で、また最初からになってしまった。正確には、バルドルの手によって殺されるくらいならと、早苗をかばったトトが世界を壊したのだ。
あの時、神化したトトの胸にぎゅっと抱きしめられた感覚は今も消えない。肌と肌が触れ合うだけで、途方もない恐怖から解放されたのだ。自分の中でトトがとても大きな存在であると、実感させられた。


「トト様…」

「何だ」

「っ!?」


いつの間にか背後に居たトトに、早苗は両肩を跳ねさせた。トトは思ったよりも穏やかな顔をしていて、早苗は少しだけ安心した。


「いえ…少し、お声を聞きたいと思っただけです」

「貴様は相変わらず面白いことを言う」

「トト様に面白いと認めてもらえる人間が増えれば、終末の砂時計も、少しは逆走してくれるでしょうか」

「ふっ、収穫祭で私を遠慮なく連れ回した貴様とは思えぬほど、控えめな意見だな」

「何をおっしゃいます、わたしはいつも謙虚です………収穫祭?」


すでに…途中から数えるのを諦めていたこともあり正確な数字は分からないが、今回の箱庭は恐らく六十二回目。その中で収穫祭が行われたのは十三回目と二十回目のみ。今回の記憶しか持たないはずのトトからその言葉が出てくるのは絶対的におかしい。


「なんで…トト様、収穫祭のこと……覚えていらっしゃるのですか?」


言われてから違和感に気づいたらしいトトは、少し眉根を寄せて続けた。


「…時折、貴様と過ごした記憶が混濁する。混線するというべきか…?この記憶は一体何だ。貴様は神が定めたこの箱庭の時間軸を歪めているのか?」

「…わたしが、箱庭計画で神々と人々の関係修復が失敗する度に、時間遡行していると言ったら、信じてくださいますか?」

トトの手がすっと伸びて、早苗の横髪をすくい上げるようにして、頬に触れる。交わる視線が恥ずかしくて、逸らす振りでトトの手に頬を寄せてみた。暖かい。
叡智の神らしい全てを見透かすような視線にもう一度目をあわせると、額が触れ合うほど顔が近づいていた。唇が、触れ…

そうになった時、同じ階の廊下から生徒の足音が聞こえてきた。
それを合図にしたようにピタリと停止したトトはため息をついて、昼休みも終わるか、と小さく呟く。ああ離れてしまうと、今回は恋人同士でもないのにがっかりした自分に、早苗は少し呆れてしまった。

なんて愚かな期待だっただろう、そう思っていると、近いまま止まっていたトトの顔が更に近づいた。


「貴様は、恐らく私の…半身のような存在だったのだろうな」


音をたてることなく奪われた唇に、胸の奥が大きな音をたてた。
唇を味わうように食まれ、顔に血が集まる。

トトは満足したように笑うと教卓へ向かい、授業の教材を準備しはじめてしまった。他の神々に見られたら問題になるくらいには赤い顔を引っ込めるため、早苗も自分の机へ座ると授業の準備をして、図書室で借りてあった本を開いた。





【06:何度も心を奪われる】





文化祭当日。精霊の生徒たちも一丸となり、様々な神話のプレゼンを兼ねたブースが各教室に設置されている。ギリシャ、北欧、日本、マヤ、朝鮮など早苗が読んだことある神話ばかりで、ついそわそわと出店を見てしまう。
結衣は日本神話のブースを手伝っているので、早苗はエジプト神話のブースを手伝うことになっている。アヌビスだけでは精霊たちとのコミュニケーションもスムーズではないからだ。なお、エジプト神話のブースにある概要の書かれた模造紙は早苗とトトの監修、出店では手のひらに載せられる二頭身サイズのミイラ人形「ミィ」を配布している。


「ミィ」


トトと同じくらい低い良い声で喋るこのミイラは、深い紫ボディに白い包帯で、中身が入っていない観光用模造品のようなものだとアヌビスから聞いている。しかし、喋るのだ。中身は無いのに。


「ミィ…」

「どうしたの、ミィ。」

「ミ、ミ」


アヌビスのようにその裏に隠された言葉が聞き取れないものかと思案していたが、ミィとなくミイラ人形は日本神話ブースへ小さな手をブンブン振っている。なるほど、あのブースが気になるらしい。


「へえ…すごい、勾玉のブレスレット、可愛いね」

「ミィ!」


肩に移動したミィと一緒に日本神話のゾーンを見て回る。勾玉は早苗の胸に下がる八尺瓊勾玉で馴染みがあるので、ついつい見て回ってしまう。


「矢坂早苗、ここへ来ていたのですか」

「月人さん、お疲れ様です。売れ行きはどうですか?」

「順調です。先程までは草薙結衣も居たのですが、アポロン・アガナ・ベレアに連れて行かれてしまいました」


結衣に会いに来たのかと思ったらしい月人に言われ、そういえば結衣が居ないと気づいた。

逆ハーレムを作っていた時以外、早苗は月人とは良い関係を築いている気がする。適度な距離感を保ってくれる、というよりも、人との距離感が分からないらしい彼との会話は、同じく人との付き合いが上手ではない早苗にはありがたい。
今回もまた、トト以外で会話が弾むのは月人だ。


「そういえば、このトンボ玉は君らしい色をしていると思います」

「あら、綺麗…!まだ今日は何も買ってないから、これいただきます」

「お買い上げ、ありがとうございます」


それを受け取った瞬間だった。

カシャン。

月人の枷が外れる音がした。
驚愕に目を開いている月人に、早苗も驚いて声が出ない。こんなにあっさり、何も無い瞬間に外れることは稀なのだ。


「外れましたね…」

「外れました。…矢坂早苗、君のおかげなのでしょう」

「わたしは、何もしていないような…」

「草薙結衣よりも君と居る時間の方が多かった。年初にやってきた戸塚陽のことも丸く収めてくれた。俺にとって、矢坂早苗という人間はとても親しく感じられる」


穏やかな笑顔を見て、早苗もふんわりと表情が和らぐのを感じた。

月人と別れ、これはトトが検知していたとしても、居合わせた者として口頭報告すべきかと思い立った。エジプト神話のブースへ戻ってくると、どこからか腕がぐいっと伸びてきて屋台の裏側へ引き込まれる。
見上げれば少し不機嫌そうなトトが居り、早苗はちょっと身構えてしまった。


「トト様、ご報告がございます」

「戸塚月人の枷の話か」

「はい、先程外れました」


不機嫌そうなトトは早苗が付けているトンボ玉のブレスレットを見ると、更に不機嫌そうに眉間のシワを増やしてしまった。早苗の頭に、もしかしたら…という可能性が浮かんできたけれど、まさかそんなことがあるはずがない。この世界ではまだ恋人ではないのだから。


「これは…日本神話の二柱が自ら作ったものだな」

「そう…なのですか?月人さんに勧められて買ってきたので」

「気に食わん」


はっきりと言われたそれに、早苗の胸が大きく高鳴った。


「まさか私というものがありながら、他の男神に気移りしたわけでもあるまい」

「トト様…?」

「今回は何度目だ」

「……!!……恐らく、六十は超えました」


そうか。とだけ言ったトトは、ふいに早苗の後頭部に手を回すと、


「ん…ん!?」


唇をふさがれた。
途端、視界が光の海で覆い尽くされ、まるでトトやクロノスが世界を壊したり巻き戻したりする時のようだ。
そのまま体がふわふわと浮いてしまうような感覚ととともに、意識が遠のいた。










2018/08/18 今昔





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