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【03:因幡の白兎】



第一回運動会、と書かれた横断幕が下げられたテントの中で、早苗は念のためと待機を命じられていた。ピクニックの数日後、ロキが「部室がほしい」と結衣に無茶なお願いをしたそうで、今回の体育祭は部室の場所を決めるためのものらしい。くじ引きじゃ駄目なのかとも思ったが、神々が人間の行事を学ぶ良い機会だろう。最も、学ぶ内容が日本に限定されたものにならないよう、今後の軌道修正は大切だろうが。

兎にも角にも、早苗は左肩にトキのトッキーを乗せ、足元を忙しなく駆けまわりながら包帯やら薬の準備をしている兎のウーサーと共に、トトの隣で待機をしているのだった。もちろん、この大人数での体育祭であったら怪我人も多数でたかもしれないが、マメなことに結衣が用意してくれたプログラムを見る限り、参加者は神々だけのようだ。
随分と気合の入っている結衣や神々とは違い、隣で面倒そうに本に目を落としているトトは興味が無いらしく、あと数分で開会式だというのに立ち上がろうともしていない。


「トト様、失礼します。そろそろ開会式です、行かなくては草薙さんが呼びに来て面倒なことになるのではないかと思われます」

「…はぁ、それも億劫だ。行ってくる。貴様にこれを預ける、決して汚すな」

「はい、トト様」


トトが素直に言うことを聞いてくれそうな言葉を選んで言うと、想定通りに彼は早苗に本を預けると結衣が用意したという開会の言葉が書かれた用紙を持って、朝礼台のようなものへと歩いて行った。準備をしていた結衣は早苗が送り出したことに気づいたのか、こちらに向かって一礼してくる。律儀な子のようだ。
開会の時間になると気だるげなトトのいい加減な開会の言葉で運動会が始まった。赤組はアポロン、月人、バルドルの生徒会メンバーで、白組にハデス、尊、ロキが居るようだ。ディオニュソスやトールは見学に徹している。ディオニュソスが何やら水筒ではなく瓶から水分補給しているので、あとでアルコールかどうか確認しておいたほうが良いかもしれない。葡萄酒の神様なら例え学校の中でもワインを作ることは造作ないだろう。

戻ってきたトトに本を返すと、彼は図書室にいるから解決出来ない問題が起きた場合のみ呼ぶように、と言い残してさっさと行ってしまった。去り際にトキのトッキーの頭を撫でてお前も来るかと提案していたが、トッキーは包帯を加えて残る意思を示したようだ。
トトが戻ってしまった頃、一種目目が一般生徒によって読み上げられた。どうやら対戦の組み合わせは決まっていて、何で勝負するかを毎回くじ引きで決めるようだ。なかなか面白いが、その分凝った競技は出来ないのではないだろうか。


「一種目目、障害物競争!!」


そんなことはなかったようだ。
どちらが勝とうと正直早苗には関係ないので、怪我人が来るまでは読書をしようと本を開いた。障害物競争の様子は空中に登場した巨大モニターのようなものにも映しだされ、校外へと走りだしていった選手の様子はこれで分かるようだ。
モニタを少し見てみると、第一戦はアポロンとハデスによる親戚対決のようだ。伯父や甥と同級生になる気分はどうなのだろうか。まして運動会で直接対決など…組み合わせを決めた人の脳内が気になるところではある。

エジプト神話の太陽神ラーが地上の王として君臨していた時代のマアトとゲレグについて読んでいると、どうやら障害物競争に出ていた選手たちが校内に帰ってきたらしい。3つの頭がある黒犬が砂埃をあげて駆け込んでくる。そしてその後ろから見たことのない生き物…片方は馬に見える何か動物が2匹、犬の後ろを追っていた。何が起きたのかさっぱり分からずに見つめていると、馬の方が犬に乗っていた神…おそらくハデスを思いっきり弾き飛ばし、重力を無視したように地面と水平に吹っ飛んだハデスはその勢いでゴールテープを切った。


「たいへん!」


早苗は慌てて簡単な応急処置ができる薬箱を持つとゴールの方へと走りだした。神様といえど枷で能力が抑えられているという状態では、大怪我をしている可能性だってある。早苗があんな風に飛ばされたら全身ムチ打ち痣だらけになってしまうだろう。
早苗がハデスの元へ駆け寄ると、既に彼は周囲に居た一般の男子生徒に肩を貸されており、ひとまず保健室へ移動することになった。

ハデスはやはり人間の体のせいか全身打撲という、小さい交通事故のような怪我を負っていた。痛めたであろう部分に湿布を貼り、包帯で固定する場所は固定していく。やはり箱庭に来てから保健の教科書を読んでいたのは正解だったようで、一人でも問題なくハデスに処置を施すことができた。


「はい、ハデスさん、処置は完了になります。他に頭が痛いとかはありませんか?」

「問題ない。すまない…お前もゼウスの戯れに付き合わされて、苦労しているのだろうに。」


そういえば彼はゼウスの兄だったなと思いながら、早苗は作って冷やしておいたお茶を差し出し、ベッド横の椅子に腰掛けると曖昧に笑ってみせた。

突然この世界に呼ばれたことに驚かないはずもないが、もとより神話は嫌いではなかったし、元いた世界の生活に不満があったわけではないが何となく満足もできていなかったのが事実だ。
箱庭の生活が終われば元の時間に帰してくれるというのであれば、それは程よい人生のエッセンスなのでは?という程度には思えるようになってきている。何よりロキや尊など既に「放って置けない」生徒は幾人も見つけてしまった。


「大変は大変ですが…やり甲斐もありますし、なによりこうして皆さんと顔を合わせてお話が出来て嬉しいと思うことも多いですから。」

「お前の意思でなく召喚されたというのにか?」

「人間はいつだって神様には逆らえません。神様が何回も人間を滅ぼすというのは、神話として人間にも伝わっています。私は今この時間の中で頑張ってみるしか出来ません」

「…前向きだな、矢坂は」

「いえ…ただ私は、草薙さんや神々のみなさまに、自分を重ねているのだと思います」

「自己投影、か」

「私も、出来るなら学校生活をやりなおしたいと思っていました。ですから、こうして皆さんが楽しげに学校生活を送られているのが、私も嬉しいのです」


人間のイジメなんて些細な事ではじまる。早苗のようにちょっと人より目立つ性格で思ったことを口に出来るというのも、裏を返せば相手を傷つけやすいということになる。思慮深く優しい性格の人だって、悪く言えば根暗だ。そういう他愛もないことでイジメは始まる。
偶然その対象になってしまったことはどうしようもないが、欲を言うなら自分の分まで神々に学校生活というものを楽しんでもらいたい。そう思うのも本当だ。

ハデスの手がぽんと頭に乗って、冥府の神だという彼の暖かさが早苗の心をそっと癒してくれるようだった。ほっと一息ついて初めて気がついたが、この世界に来てから多少なり気を張っていて少しばかり疲れていたようだ。
冥府を治める神様の側というのは、恐ろしいよりも穏やかで心が落ち着いていくものらしい。精神的な疲れがすっきりととれたような気がして、早苗はハデスにそっと微笑んだ。


「お前は…前向きで明るい。私とは正反対だ。」

「そうでしょうか?私、けっこう暗いですよ。それにハデスさんは後ろ向きで暗いのではなく、落ち着いた性格なだけなのだと私は思います。」

「ものは言いようだな。人間を理解するには、まだ時間がかかりそうだ」

「私も草薙さんも、お手伝いします。」


じきにロキが頬に傷をこさえたと言ってやってきて、手当をしているうちに日本神話対決が始まった。窓から3人で行く末を見守っていたが、どうやらパン食い競争は引き分けに終ったようだ。ロキは面白くなってきたねぇと楽しげだ。


「ところで、ロキさんとバルドルさんはどちらが勝たれたのですか?」

「ん〜? オレ負けちった〜☆」

「どうせ、くだらんイタズラで失格になったのだろう」

「デスってばひっどーい。ちなみに借り物競争だったんだけど、この借り物シャナセンセにこれあげる」


言ってロキは足元においていたらしい兎の人形を手渡してきた。精密に作られたそれは鳴き声こそあげないものの、本当に生きているかのようだ。ロキという悪神は手先が器用で様々な道具を人間に伝えたと言われているが、借り物競争の間にこれを作ったというのだろうか。


「ロキさん、これは…?兎の人形?」

「そ、『因幡の白兎』なんてさ〜、見つかるワケないじゃん?」

「借り物競争でそれを入れるとは…くじを準備したのは誰なんでしょう……あ、もしかしてその借り物をこれで誤魔化そうとしたんですか?」

「そーゆーこと♪バルドルもユグドラシルの葉が借り物だったんだけど、あっちはあっさり手に入れちゃって。反則レベル〜」


勝敗が決した時のことを思い出したのか、トキのトッキーの頭をつつきながら、ロキは口を尖らせた。トッキーも嫌がった様子ではないので放っておくと、早苗は因幡の白兎もどきを撫でると机にそっと下ろしてやった。





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