お名前変換





【 2:楽園の意味 】




「シャナ、居るか?」


ノックの後に聞こえた、すでに聞き慣れた声。
シャナは今日も今日とて学校をサボり、自室で読書をして過ごしていた。必要最低限の食事しかしていなかったせいで体は重たく、廊下から自室に向かって呼びかけてくる声に対して何か答える元気は無い。早くどこかへ行ってくれ、私を一人にしてくれ。そう願うくらいしかすることはない。


「シャナ…」


そんなふうに寂しそうに呼んだところで出て行かないぞ。とシャナは内心で言い、扉の外に居るのであろうハデスのことを思うと、シャナは心臓が痛くなるような気がした。人間の体は不思議だ。
ハデスはあれから毎晩のようにやってきて「教室へ来てくれないか」「顔をだすだけで構わない」と言って去っていく。足音が遠ざかった後に扉の外を見てみると、毎度ドアノブにビニール袋が掛かっていて、大福が入っていた。日替わりで味の変わる大福は、ハデスがこちらの体調を気にかけているのだろうということを教えてくれた。シャナがかろうじて餓死していないのは、このハデスの差し入れのおかげだ。


「どうしても、教室へ来る気にはなれないか?」


今日は違った問いかけをされた。そもそも、初日にとても酷いことを言ってしまったというのに、ハデスはどうしてこうもシャナを気にかけてくれるのだろうか。


「お前が来たくないと思う理由を教えてもらえないだろうか。俺は…出来ることならそれを取り除いてやりたいと思う」


なんてことを言うのだろうか、この冥府の王は。
シャナは楽園へと導かれるはずの人間でありながら、冥府へと落とされてしまった嫌われ者だ。そんなシャナを好いてくれたのはアフ・プチだけであり、アフ・プチだけが父親が娘に対するように愛情を注いでくれた。
ハデスのように接してくる者は今までに居なかったせいか、どう反応をしていいのかさっぱり分からない。シャナはそれでも、同じ冥府に属する神に失礼になってしまうのは嫌だし、最初の夜のことを謝らなくてはと起き上がった。
ペタペタと素足と床が触れ合う音をさせて玄関へ行くと、扉に両手を宛てて座り込んだ。


「はじめて来てくれた日のことは、すまなかった。」

「構わない。…お前も、他者と関わりたくない理由があるのだろう」

「あぁ、そうだ。私は…人間に疎まれていた。そんな人間が神になったところで、他の神々に好かれると思うか?そもそも冥府へ落ちたのは自分のせいでは無いというのに」

「……俺は、誰かに近づくとそのものを不幸にしてしまう」


内心を吐き出すように言ったセリフへハデスが静かに返した言葉に、シャナは耳を傾けた。


「俺は冥府の王として、死者の恨み辛みをこの身に受け続けている。それは呪いとなり、数々の不幸を呼び寄せる。俺が不幸になる分には構わない。だが、近くに寄る者までも不幸にしてしまうこの呪いは、俺に他者と関わる恐怖を植えつけた。」

「…それが理由で箱庭に?ゼウスは自分の兄に何がしたいんだ。冥府を統べるように言ったのはゼウスなのだろう?」

「くじ引きで決められたことだ。…今思えば、あの時から俺には運がなかったのかも知れないな。」


そこで一度言葉が途切れ、扉の向こう側から大きなため息と扉により掛かるような音が聞こえた。
決して人間を嫌っているようには見えないハデスは、人間ではなく愛情の方を学ぶべきだとして箱庭に呼ばれたのかもしれない。それに応じてここへ来たはいいものの、他者と関わりたくない思いは、他の神々を見ることで刺激されたのだろうか。


「では何故、私をこうも気にかけるのだ?怖いなら、私もあなたと距離を置こう。あなたを困らせたくはないのだから」

「それは……。お前は俺ほど冥府の影響を受けていないと見た。だから少しでも、お前だけでも幸せになってくれたらと思う。俺の代わりになどとは言わないが…自己投影していたことは認めよう」

「私が幸せになったら、ハデスも幸せなのか?」


シャナは立ち上がると、扉の鍵を開いて勢い良く手前に引いた。予想通り扉に寄りかかっていたらしいハデスが内側に倒れてくるのを、両腕を広げて抱きとめる。
少し自分よりも冷たいように感じる体温が、なぜだかとても心地良かった。


「おい!何を…」

「私はあなたと話がしてみたいと思った。冥府の王であるあなたなら、私のこと、私の身に起こったことを分かってくれるんじゃないかと思う。」

「俺が聞くことでお前が少しでも楽になれるのなら、俺に拒む理由はない」


シャナはハデスを抱きしめたままで目を閉じ、昔のことを思い出した。すでに何百年単位で過ぎ去った過去の話ではあるが、今でも瞼の裏に鮮明に焼き付いて離れないその光景は、シャナの背筋を凍らせる。
体勢を整えたハデスがシャナの背中に手を回して立たせてくれたので、シャナはドアノブに掛かっていたビニール袋を手に取ると部屋の中へと招き入れた。



 ◇ ◇ ◇




_




_