「お待ちなさいな!!!!」
「待てと言われて待つ馬鹿が居るかよ!!!」
夢ノ咲学院の音楽科へ通う彼女、青梅夜子は、夢ノ咲学院の渡り廊下を全力疾走している。というのも、その前方に逃げる獲物が居るからであり、獲物が逃げなければ夜子とて走る必要はないのである。
獲物は艷やかな黒い髪の毛を揺らして走っているけれど、人間ではないその体は日光に弱い。つまりこの真っ昼間っからの追いかけっ子は男女差を含んでも、互角かそれ以上の成果を見せられる。
アイドル科の校舎へと逃げ込んだ彼を追いかければ、もはや顔パスになっている警備員さんに「頑張ってくださいね」と声をかけられながら、夜子もまたアイドル科へと侵入する。その顔パスっぷりを振り返ってみていた獲物は「うげ!?まじかよ!」と声をあげ、階段を駆け上がっていく。
「お待ちになって!!今日こそ、今日こそ歌っていただきますわよ、朔間零!!!」
およそ人間とは思えない美貌と、こちらを射抜くような赤い瞳。老若男女問わず蓮巳家に訪れる者を魅了してきたその男こそ、朔間零。夜子の幼馴染である。
「あんな難易度のもの歌わせるなよ!!俺様ちゃんじゃなきゃ卒業までに通すこともできねえぞ!」
「だからこそですわ!さあ、零!!レッスン室は抑えていますのよ!!!」
「ひいっ!!!」
四月も第三週に入れば、アイドル科の同級生たちからも好機の視線は向けられなくなり、むしろ「ああ、またか」「よくやるな」といった声や、どちらかを応援するような声がかけられる。
ただし、実質男子校となっているアイドル科は、本来追っかけなどの侵入を防ぐために、他の学科であっても立ち入りは許可なき立ち入りは禁止されている。夜子の場合には零の幼馴染であるという以上に地元の名家『青梅』の名前と、アイドル科の保険医である佐賀美陣と仲良くなったことが大きいだろう。
「お覚悟…☆」
追いついて背中に抱きつくように捕獲すると、二人はそのまま床にスライディングした。
「いってぇ…」
「零が逃げるのが悪いのでしょう?」
「あのなあ…俺だって暇じゃねえし、お前も音楽科で友達作れよ。歌わせたいなら声楽科だってあるだろうが」
夜子によって突きつけられた楽譜を渋々受け取り、めくりながら零はため息をついた。ごもっともな意見ではあっても、夜子からすれば零の才能を腐らせるほうがよくないと思っている。
「零が短期留学を考えてるのも聞いたことだから、日本に居る間にお願いしようと思っているのよ。それに、アイドル科の現状は幼馴染から聞いていたから…」
「ああ、それでやたらと俺様ちゃんに目立つことさせたいのかねぇ。だったらお前が旗頭になれば良いだろ」
「私はあくまでも音楽科の作曲コース。アイドルではないわ。私の方でも出来ることはやっているし…」
夜子はもそもそとブレザーのポケットからスマホを取り出すと、校内SNSの楽曲ページを開いてみせた。
ずらりと並ぶ、生徒なら誰でも使うことが出来るようになった音源には、ダンス向けのインストからアイドルソング、楽器の練習用にギターやベースなどのデモ音源も並んでいる。果ては発声練習用の音源も、よくあるピアノの音源からポップス調、ロック調、クラシック調、テクノポップ調と続く。
「次は和楽器の発声練習音源を作ろうと思っているの」
「なるほど…つか、よくもまあ三週間でこれだけ作ったな」
「今までのストックを大量に開放しただけの話よ」
零が向けられていた画面を動かしているので、音源の一覧や楽譜を見ているのだろう。そろそろ、夜子が提供した楽曲音源以外にも譜面や、振り付け動画などが見えてくるはずだ。
「やる気のある連中なら動けるように地盤を整えるのか。夜子らしいじゃねえか」
「そうでしょうそうでしょう?で、作曲にはまったので、零に歌ってほしいのよ!」
そうきたか。と辟易している零の手を握り、夜子はよっこいせと立ち上がった。年寄りくさいと言われた声をスルーして、スカートを整える。
「それじゃあ、放課後にアイドル科のレッスン室で会いましょう。今渡したはロックとクラシックよ。」
夜子が零から離れると、近くの教室から顔を覗かせていた上級生に手をふられ、それに会釈を返す。天祥院のパーティやその他の社交界で見覚えのある顔が極稀に居たり、全く知らない顔をも居たりするけれど、まあ顔を売るのは悪いことではないはずだ。
「ねえ、君ってもしかして、踊ってみたとかやってる?」
一年B組の前を通りかかると、声がかけられた。具体的にこう指摘されるのは初めてだったので驚いたけれど、夜子はにっこり微笑んで答えた。人差し指を口に当て、
「内緒にしてくださる?」
「やっぱりクイーンだ…!」と呟いた男子生徒から目線を外し、音楽科へ戻る渡り廊下を歩く。だいぶ暑くなってきた日差しでさえも嬉しく感じられるのだ。
中学のときのように零と仲が良いことで発生する女子からの嫌がらせもなければ、同じ中学からは零しか進学してきていないので、合唱コンクールの時のあの奇妙な祭り上げられ方もされない。
「あとは、私が改革を進めるだけね。」
先人たちの威を借りる生徒たちは、アイドル科というだけで偉くなった気分であるようだ。他の学科から、特に普通科からはまさにアイドルとして扱われることもあってか、放課後になっても練習室はガラガラだ。
そこで夜子は、自宅よりも設備が整っているアイドル科のレッスン室を借りるべく、保険医と仲良くなったのである。音楽科には器楽室も多いけれど、埋まっている放課後も多いのだ。
「零は才能があるって周囲に認識されてるから駄目ね。もっと凡人でギャルゲの主人公のような人が、学院を誇るアイドルになるような下準備をしなくちゃ」
夜子は来る五月の爽やかな風を感じさせる鼻歌と共に、音楽科へど戻った
2020/05/02 今昔
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