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苦しい。
胸が、とても苦しい。

締め付けられているようなのに、どこかへ飛んでいってしまいそうで。熱いのにひやりとしたものが降り注いで、胸を伝って落ちていくようで。

早苗は苦しかった。


「いかがなさいました、主」

「いいえ、なんでもないわ、太郎さん」


夜の闇よりも深い太郎太刀の髪が、目の前でさらりと揺れる。
早苗からすれば身の丈と比べることも間違っているような刃が、たった今ならず者を切り捨てたのだと思うと、心臓がうるさくなった。

政府の管轄である、仮想的な町並みはまるで京都のようで、古き良き日本を表現した素晴らしい場所だと審神者の中でも好評だ。閉鎖的な空間に居ることを強いられている審神者のために、息抜きの場所、そして審神者や刀剣が日用品の買い出しにくるための場所として定められたここ、仮想京都。あくまでも仮想京都というのは審神者の間に広まった仮称で、正式名称はまったくもって不明なままだ。早苗もまた、周囲の審神者に習って仮想京都やら、街中と呼んでいる。


「顔色が優れません」


一体なにごとだと視線を投げてくる他の審神者など気にもとめず、太郎太刀の手が早苗の頬を撫でた。
審神者というのは多少なり、嫉妬や権力争いといったものがつきまとう。審神者に雇われたならず者。陰陽系の審神者が使ったであろう式神。蠱毒。その他様々な、多種多様な呪いの類がこの街にはびこるようになったとは聞いていた。
けれど今まで、今剣や岩融、他の刀剣たちと来ていた時にこんな危険な目に遭ったことはなかった。油断大敵と言われてしまえばそれまでだが、目の前に突如と現れた刃と触れられた慣れぬ肌の感覚は未だ気持ち悪さを残している。


「あぁ、魂が穢れてしまう。主、ここは警邏にまかせて一度どこかで休みましょう」

「事情聴取とかがあるかもしれないわ」

「そんなもの構いません、審神者とは希少な存在なのでしょう。ならば、体調を優先したところで何を咎められましょうか」


太郎に手をひかれてあるき出そうとすると、すぐそこにあった甘味処の店主が声をかけてくれたので、二人はありがたくそこへお邪魔した。御簾で区切られただけの半個室が立ち並ぶ店内を奥へ案内されると、今度はきちんと壁で仕切られた個室があった。
随分と高級な店であったらしく襖を開けて入った個室には、正面には飾り枠の障子がついた窓、左の壁には掛け軸がかけられ、右側の壁は錦鯉が描かれた襖になっていた。右隣の方向に別室の襖はなかったので、隣の部屋と続いているわけではないのだろう。
お品書きを見て注文するよりも前に、店主から温かいお茶とぜんざいが振る舞われた。
太郎太刀が注意深く先に両方を口にして、それから早苗へ食べても良いとのお許しが出る。


「して、主。顔色が戻らないようですが、あのような出来事は苦手でしたか。主の御前でありながら血なまぐさいことを…失礼いたしました」

「いいえ、太郎さんが悪いのではなくて、むしろ助けていただいてありがとうございます。ただ…」

「ただ?」


それを言うのはためらわれたが、早苗はいっそ言って楽になりたいと思った。彼にたとえ引かれたとしても、本丸には他にも多くの刀剣が居る。居づらくなるということはないと思いたい。


「太刀を振るう太郎さんが、とても美しく見えた。」


ひとりごとを呟くように、言う。


「苦しくて、でも嬉しくて。太郎さんの普段着ているものでは分からないけれど、まんべんなく鍛えられた身体をしているとか、私の頬に触れる手だとか、そういったことに気づいてしまって」

「……私も、戦士の一人ですので」

「ええ、うちの本丸でも誉の数は頭一つ抜けていますよね。優秀な護衛として、ではなくて……ええと、その………男性として、とても魅力的に思えてしまったのです。」


ただの人間でありながら神を従える罪深き審神者が、神様に恋をしかけている。など、どこの安い小説だろう。そうやって自分に言い聞かせなくては、本当にこのまま太郎太刀のことを好いてしまいそうだ。


「毎朝、ご飯を運ぶのを手伝ってくれる。近侍の時には私のしごと速度にあわせて、おだてることも急がせることもせず補佐してくれる。眠れなかった夜に次郎さんに捕まっていたら助けてくれる。そういう、今まで意識していなかったことが、なんだか……とても照れくさくって」

「主」


言われて太郎を見上げ、そこではじめて早苗は自分が俯いてぜんざいを見つめていたことに気づいた。
見た太郎太刀の顔は、ほんのりと紅いように見える。


「主の柔らかな頬に、みなのためと毎朝早くから厨に立つ姿に。私が何も思っていなかったと。まさか私が何も思わずに手を出していたと、そう思われていたことに驚きが隠せません」

「えっ?」

「しかしこうして、最近は毎日のように近侍を命じられ、そうして意識されていると分かれば。何も恐れることはない」


机の反対側から、着物の裾を抑えながら太郎太刀の手が伸びた。柔らかく頭を撫でられると、とくんと心臓がなる。


「他の刀剣よりも神威のある私であれば、隠せるだろうか。そう思わずには居られません」

「太郎さん……私は、」

「主のことですから、恐らく神を相手に何をおこがましいとでも思っているのでしょう。しかしあなたは玉依姫となるだけ。神の末端に愛されただけ。そう思って、どうか受け入れてはいただけませんか」


切なげに眉尻をわずかにさげた太郎太刀に、早苗の心臓は限界を迎えた。ゆっくりとなぞられた唇に目をつむり、そこから先は彼になされるがまま。愛を受け入れるがまま。幸福に、酔いしれるがまま。魂が食われても構わないと、早苗はそう思った。














2017/11/08 今昔
ていよく出会い茶屋へ連れ込まれた審神者。





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