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※連載(篠突く雨)設定
※読みづらすぎるので、今剣の台詞も漢字で書きます。



その草原には、優しい風が吹いていた。

なびく髪の毛。
揺れる瑞々しいコスモス。


「あるじさま、いらしていたのですね」

「私はあなたの主ではないわ」


振り返れば、同じように髪を揺らす少年に、サナは微笑んだ。
眩しい程の緑の中に、彼の着物の色は船のように浮いて見える。どこか懐かしいその色の組み合わせに、サナはまたしてもぐっと涙がこみ上げてきてしまう。いつの日だったろうか、見たことがあるのだ。この景色を。彼のことを。


「なにがあっても、あるじさま は ぼく の あるじさま なんですよ」

「…そう、私は名前も知らぬあなたの主なのですね」


冷たく突き放すように言っても、彼はサナの背中から近づくと優しく両腕を回してくる。温かいと感じるはずのその体温は、どこか膜を通したように遠く感じられた。まるで彼と住む世界が異なり、触れていても触れられないような。そんな不思議な感覚がするのだ。


「こうして、未だ繋がりが切れず時折お顔を見せてくれるだけで、ぼくは存在する意味を見いだせるというものです。」

「………」

「欲を言うのであれば、またあるじさまに…髪を梳いてもらいたいです。けれどそれは」


白髪で長髪の彼はそこで息を止めると、苦しそうに腕の力を強めた。
こちらが苦しく感じそうなほどの強さなのに、その拘束はなぜかとても心地よい。前よりも彼の身長が伸びているようで、低くはないサナよりも彼の方が少しばかり背が高いようだ。記憶のどこかにひっかかったその感情は、些細な違和感を覚えることもなく、胸の中にすとんと落ち着いた。
そんな些細なことはどうだっていいのだ。彼に求められていること、それを感じることが出来るこの瞬間が、何よりも愛おしく感じられる。


「戦いなど、終わらなければ良かったのだと、そう思うぼくをお許し下さい。あるじさまの元を離れることが、この身を切られる痛みよりも酷く、心の臓を止めようとするのです。いっそ、ぼくが時間を捻じ曲げ…あるじさまのお傍にいられるようにしてしまおうかと」

「時間を、捻じ曲げる?」

「ならぬことと、承知しています。けど、ぼくは……耐えられそうにありません」


抱きしめてくれていたその腕から、もわり、黒いものが浮かび上がった。何かファンタジー小説にでも登場するような模様は、どくんどくんと脈打っている。赤黒く光るそれに、サナは本能的に危機感を抱いた。
彼から離れなくてはならない。そう感じるのに。彼の腕がサナを押しやろうとしているのに。サナは無理矢理に腕を振り払うと、振り返り、抱きしめた。

途端、彼の体に渦巻いていた黒い模様が、まるで生きているかのようにサナの体へと乗り移ってくる。
黒い模様は冷たいと感じることも出来ないほどに冷たく、肌がヒリヒリし、とてもではないが、人間が耐えられる代物ではないと思われた。まるで魂が食われていくかのようなのだ。けれどそれを全身に纏う赤眼の少年は、儚げではあるが笑顔を浮かべてみせた。


「あるじさま、駄目ですよ」

「駄目よ!こんな邪なもの、あなた耐えられるわけがないでしょう!?」

「それが分かるのも、あるじさまがあるじさまたる所以なんですよ。知ってますか」

「分かんないよ!だって私普通の女の子なんだもん!!ちょっと実家が神社ってだけで気味悪がられたりするけど、それでも普通の女の子…なんだよ!!」


言っていて、混乱した。
これではまるで「普通の女の子」ではないと認めているかのようだ。

少年はふふっと笑うと、諦めたような、何か決意が固まったような顔を見せた。まだ黒い模様は彼の体からふつふつと湧き上がってくるというのに、その笑顔で、サナは全てどうでもよくなってしまった。


「思い出してくれなくっても大丈夫です。あるじさまのお傍に置いてくれるのなら。ずっとお守りしますよ」

「なに、言って…まずは"穢れ"をどうにかしないと、闇に落ちてしまう…」


そこまで言って、二人そろってハッと顔を見合わせた。


「あるじ、さま…?」


そうだ、覚えている。
覚えているのだ、サナの頭ではなく魂が、心が。彼とのことを覚えている。

彼が本当は人間ではなく付喪神で、サナの守り刀で近侍で、そして一番大切だった人。
時間遡行軍との戦いが終わって、政府によって引き離されてしまった、愛しい人。

けれども、審神者としては古株であり、政府が恐れる程の霊力と適正を持っていたサナと刀剣の繋がりは、政府の腹心である霊力者たちには断ち切ることができなかったのであろう。記憶は修正され、普通の女の子として生きてきたように思っていたが、こうして何かの拍子に自分が治めていた本丸に帰ってきてしまうほど、繋がりが強かったのだ。

彼の方もきっと、繋がりが、思いが強すぎて本丸という場所を離れられなかったのだろう。


「駄目よ、今剣。あなたが邪神に落ちたら、私はあなたを祓わなくっちゃいけなくなるもの」

「あるじさま…覚えているのですか!」

「ごめん、ごめんなさい。何度も本丸に来ていたのに、記憶の封が強すぎて思い出せなかった…こんなに、大切な人のことなのに」

「いいんです。さっきも言いましたけど、ぼくはあるじさまのお顔が見れればそれで、いいんです」

「今剣…」


言いながら、彼の体から湧き上がる穢れは増すばかりだ。留まることを知らないように、満ち、溢れた穢れは黒い模様となって、本丸があったこの空間を侵食していく。
本来、刀は切ることが仕事であり、刀剣の付喪神は自分の神域を持つことは出来ないとされていた。けれど、平安から存在する最も古い部類でもある今剣が、この本丸という空間を侵食してしまえば、ここは邪神「今剣」としての神域とも呼べる場所に変わるだろう。

今の、政府によって力を制限されたサナに、この場所を清めるほどのちからは、もう残っていない。
出来るのは、自分だけが元いた人間の世界へと帰ることだけだ。


「今剣」


出来るだけ優しく名前を呼ぶと、サナはそっと彼の頬に唇を寄せた。


「私、帰らない」

「どうして…このままだと、ぼくと一緒に…悪いものになって、最後には消えてしまうんですよ。この本丸はまだ清浄な力が残っているので、ぼくがこのまま落ちたところで、いつの日か消えてしまうことは確かです」

「それでも、それでいいじゃない。
 本当なら神様である今剣はずっと生き続けて、人間の私はすぐに死ぬはずだった。けれど、二人で一緒に終われるのなら」


ならば、彼と共に。


「今まで忘れてしまっていた分も、一緒に居よう」


その言葉に、今剣は目を見開き、そしてやがて穏やかな笑みを浮かべると、今度は柔らかくサナを抱きしめ直した。
穢れの侵食も気にならない。ただ今は、二人が同じ場所に存在できるだけで幸せだ。

本来ならば交わるはずのなかった人生なのに、こうして出会って惹かれてしまった。
一緒になる術がないというのならば、いっそ二人で消えてしまおう。


「あるじさま、ぼくに真名を教えてください。このまま、ぼくと一緒になりましょう」

「今剣…耳を貸して」


サナは誰が聞いているわけでもないのに、今剣の耳元で、そっと、告げた。
審神者名でもなければ、本名でもない。現代人が持つのは珍しい、魂の名前を。










【 秋風の帰還 】








石切丸は、最近顔をみなくなった兄弟を思い出して、小さく笑みを浮かべた。
あの小さかった主を、恋によって女性へと育ててしまった、あの幼い兄上。


「幸せ、だったのだろうね」

「そうでなければ、ならんだろう」


縁側の隣に腰掛けた岩融も、ふふっと柔らかな笑顔で言った。


「我らが主殿は、政府の修正に負けなかった。あれでは政府とて時間遡行軍と同じことをしていたようなものだ。ならば、本来の形に戻すのが主殿…サナ殿のお役目というもの」


丁度居合わせた小狐丸も、いつも石切丸の神域に居座っている三日月も、同じように頷いた。
そうだ、彼らはきっと幸せなのだ。


「良かったね、サナ」


今はもうこの世のどこにも居ない少女と、自分の兄刀を思い、石切丸はそっと空を見上げた。







2016/09/30




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