ウォルターはのんびりといつもの服に着替える。手慣れた手つきでネクタイをすれば、壁に掛けられた鏡で確認し部屋を出た。
規定の時間に起きたのはずいぶん久しかった。だいたいは時間をすぎ、同い年のメイド、エリーゼに起こされるのだ。いつものことだから今日も寝ている思い、ウォルターのことを起こしにくるのだろう。そして部屋を覗けば起こしにきた筈の人物はいない。
ウォルターは誰もいない廊下でクスクスと小さく笑った。
仕事前に一服しようとお気に入りの場所へ向かう。朝の風はほんのりと冷たくて暑いのが苦手なウォルターには丁度よかった。
口元に運んだ煙草に火を付け、煙を深く吸い込んだ。害のある煙は肺をいっぱいに満たしてから外に出る。喫煙者にしかわからない至福の時に満足気な笑みを浮かべた。
エリーゼがいたらこの嗜好品もただの害だ、と取り上げられただろう。皮肉にも敵であるナチスドイツが煙草の害にいち早く気付き、禁煙政策を上げ、それが各国に広がった為に喫煙者のウォルターは迷惑していた。
ウォルターは煙草の火を消し、その場を後にした。
「珍しいな。エリーゼは寝坊か?」
アーサーの言葉にハッとする。仕事中一度も彼女を見てないのだ。
主に断りをいれ、ウォルターは様子を見に行くことにした。
今までエリーゼが寝坊したことなんてあっただろうか。ウォルターの記憶では風邪を引こうがそんなこと一度もなかった。
自然と歩調が速まる。
何故だかわからない不安に冷や汗まで出てきた。気付けばウォルターは屋敷の廊下を全力で走り、エリーゼの部屋の前で立ち止まった。呼吸を整えてからドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
「いつまで寝てるの」
ベッドに横たわる彼女に声をかけるが返事はない。
「早く起きなよ」
近付いてもう一度声をかけるが返事はない。そっと顔を覗き込むと寝ている、がしかし息はしていない。
「起きろよ」
ウォルターの声は静かな室内に響く。何度も何度も。
「起きないとキスするよ」
返事が返って来ないことはわかっている。
紫がかった唇にウォルターはそっと口付けをした。
冷たい。
それは人間の体温ではなかった。悲しいほどに冷たいのだ。一見、眠っているようにしか見えないのにもう目を覚ますことはない。胸に手を当てても心臓は静止したまま。
昨日迄普通に生きていた人間がこの世を去った。昨日迄普通に生きていた人間が歩く屍となった。
生命とは非常に脆い上に重いものだと初めて痛感した。化け物と成り果てた人間を、敵であるなら生きている人間だって、この手で銅線で幾度となく殺めてきた。彼らが生きていたことなんて考えもしなかった。
頬には熱い液体が一筋。
「僕は君の事、好きだったのかもね」
それだけ言うと取り出した煙草に火を付け、煙を深く吸い込んだ。
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