ネームレス | ナノ



結局、わたしが東京で生活していた期間は大学時代も含めて六年弱だった。女が一人で暮らしていくには、あの街はお金がかかりすぎる。実際に地元に戻ってみれば、年収は多少なりとも下がったけれど、東京で払っていた家賃より安く築浅のデザイナーズマンションに住めるし、自炊が億劫なときは、文句を言いながらもわたしの好物を作ってくれる母のところにすぐに帰れる。今のところそれほど不便を感じてはいないが、車を買ってもいいと思うくらいには生活にゆとりがある。

「猫飼おうと思うんだけど」
「はぁ? 猫?」

わたしがこっちに戻って以来、週三ペースで入り浸っている幼馴染の二口堅治が怪訝な顔をして振り返る。
我が家と二口家は斜向かいで、両家の母たちによれば生後間もない頃からの付き合いだ。中学まで同じで、高校からは別の学校に進学して疎遠になった。幼馴染と親しくする年頃でもなかったし、わたしは高校でバスケ部のエースと付き合い始めたし、堅治もかわいい女の子と歩いているのを何度か見かけたことがあった。だからといって、それが気に入らないとか、そういうんじゃなかったけれど。
そんな状態だったのが、成人式で再会して、なんとなくまた連絡を取り合うようになった。こっちに戻るに当たって引っ越しも手伝ってもらったし、二缶目のビールもちゃんと自分で買ってくるから、今のところ堅治の入り浸りを咎めようとは思っていない。

「まじで言ってんの?」
「まじだけど――え、だめ?」

東京でペット可の物件に住もうと思ったら、ここの家賃の倍くらいは払わなければならなかったかもしれない。地元に戻ることを決めたとき、ゆくゆくは猫を迎えたいと思っていた。いろいろと調べて、保護猫の里親になろうと決意したのだ。

「婚期逃してもいいならいいんじゃね」

それは、まぁ、そもそも現時点で彼氏はおろか心に思う人すらいないのだから考えるだけ無駄という結論に至ったけれど、少しくらいは考えた。独身の一人暮らしが動物を飼ったら終わり、みたいな話はけっこう聞くし、実際に『独身 女 猫』みたいなワードを並べてググってみたりもした。将来への不安がまったくないといえば嘘になるが、結婚願望よりも猫を家族に迎えたい気持ちのほうが強く、仮にずっと独り身だったとしても、ここでならなんとか生きていけるだろうと踏んでいる。

「ねーの? 結婚願望」
「ないわけじゃないけどあるとも言えない」
「なんだよそれ」
「彼氏もいないし」

ていうか、堅治がこうして入り浸っている時点で彼氏なんかできるわけがない。
ここに住んでますみたいに平然とリビングのソファを寝床にしているし、防犯のためとはいえ作業着を我が家のバルコニーで干している。先日実家に立ち寄ったとき、斜向かいの家から堅治の妹のあやちゃんが出てくるのが見えて、声をかけて話し込んでしまった。そのとき『お兄ちゃんと上手くいってるの?一緒に住んでるんでしょ?』なんていう勘違いを訂正してきたばかり。他の男の影が見えまくっている女と付き合いたがる人なんてこの世にはいない。

「それで、週末譲渡会に行こうと思ってるの」
「ふーん」
「堅治、日曜日休みだよね」
「――は? 俺も?」
「車出してくれないかなと思って」
「どこ」
「気仙沼」

おまえ、最初から俺をあてにしてただろ――と堅治が呆れたように言う。けれども、堅治は絶対に断らない。なんだかんだ文句を言いながらもついてくるのだ。

「もう一回考えたほうがいいんじゃねーの」
「なんで?」
「結婚して、子供できたとして、アレルギーとかあったらどうすんだよ」

堅治がまともなことを言っている、と感心しながら、たしかにそのとおりだとも思った。里親募集のウェブサイトに、それが原因で新たな飼い主を探しているという記述を何件か見たというのに、自分はその状況には陥らないとたかを括っていた。

「じゃあ結婚しない」
「おばちゃんが聞いたら泣くぞ」

実家に帰りやすいのはいいけれど、母が持つ田舎特有のこういう価値観には辟易している。帰るたびに結婚の話を持ち出して『孫の顔が見たい』と嘆かれる。三つ年上の兄が既に所帯を持っていて、孫の顔なんかもう見ているというのに。息子の子供と娘の子供では勝手が違うとは聞くけれども。

「今から彼氏つくって数年付き合って結婚して――ってしてたらいつになるかわかんないじゃん」

ガラ悪い幼馴染が入り浸ってるし、と悪態をつくも、いつもなら倍にして言い返してくる堅治が口を閉ざしたままでいる。
そこでひらめいた。堅治にいい人を紹介してもらえばいいのだ。わたしのことをよくわかっているし、最適な相手を選んでくれるに違いない。それに、堅治が勤めている会社は大企業で、二十代で高級ミニバンに乗れるくらいには経済的に安定している様子だから、同僚もきっとそうだろう。

「誰かいい人いたら紹介してよ」

名案だ、どうして今まで気が付かなかったのだろう、と高揚をおさえられないわたしとは対象的に、堅治は呆れた顔でため息をつく。

「ひらめいた!みたいな顔してんじゃねーよ」
「金銭感覚まともで、食の好みが合って、変な宗教とか入ってなくて――」

恋愛、その先にあるかもしれない結婚を、感情でなく条件で考えるようになってからは、枚挙にいとまがない。ひとつ、またひとつと、挙げ始めたらキリがなくて、自分がとんでもなく貪欲な人間に思えるほど。

「――そんだけ?」
「顔が横浜流星なら完璧だけど」

そんな人、いるわけがない。ここまでくるともはや大喜利である。

「あーいるいる、いるわ、ちょうどいい奴」
「どんな人?」
「俺」

そのとき、一瞬身体がこわばって、心臓が止まってしまいそうなほど大きく揺り動いた。冗談ではないことがすぐにわかったからだ。

「え――自分のこと横浜流星に似てると思ってるの?」
「おま――そこかよ」

そういう目で、きちんと異性として認識されていることには、しっかり気付いていた。あやちゃんにあんな勘違いをされても当然な状態だったし、それを許してもいた。いつか、そういうことになってしまうかもしれない予感も、なかったとは言いきれない。
とはいえ、赤ちゃんの頃からの幼馴染と今更こんな話になるのはかなり小恥ずかしいもので、わたしは目に見えて動揺していた。ああ、本気で言ってる、と顔を見ればすぐにわかるほど、長い付き合いだから余計に。

「わ、わたしのこと好きなの?」
「好きだよ」

いくら本気だとしてもこの手の質問にはいつもの調子ではぐらかすだろうと高を括っていたわたしを嘲笑うかのような、ストレートな言葉が耳から脳みそまで駆け抜けていく。

「――いつから?」
「おまえが発表会でシンデレラの継母役やりたくねえ、って泣きついてきた時」
「え――それ4歳の頃の話だよね?好きになる要素全然わかんないし」
「俺もわかんねえけど、その日から配役決めたさき先生のことすげえ嫌いになった」
「さき先生懐かしいね。元気かな」
「今さき先生のことはどうでもいいんだよ」

そんなふうに、堅治が二十数年前の出来事をまるで昨日のことのように言うから、おぼろげだったわたしの記憶も少しずつよみがえってくる。
横浜流星ほどではないにしても、堅治は顔が整っているほうで、幼稚園の頃なんかは近所のおばちゃんたちから『末はジャニーズ』などと持て囃されるほどかわいい男の子だった。この年の発表会の役決めには一悶着あって、出たがりの堅治がプリンス・チャーミング役に立候補したところ、ただでさえ人気のシンデレラ役をやりたがる女の子が殺到し、やむなく先生が配役をしたのだった。わたしは不本意にもいじわるな継母役をやる羽目になり、確かにそれが嫌で泣いた記憶がある。こうして振り返ってみると絶妙なキャスティングだと思うけれども、当時はやはり悪役なんかやりたい子供はそう多くなく、わたしだってそうだったのだ。

「コーラスがやりたかったのに」
「発表会の話ももういいわ」

堅治は短気な上にせっかちなのだ。おまけに頭もいい。だから、わたしが話を逸らして有耶無耶にしようとしていることなんか簡単に見抜いていて、イライラし始めている。
ところで、できればこの関係を維持していたかったわたしにとっては、ある意味では究極の選択を迫られているとも言える。ノーと言えば今後気まずくなるのは必定だし、たぶん、偶然以外では会うこともなくなる。そして、そうなるかもしれないという可能性を、堅治が考えなかったはずがない。つまり自信があるのだ。わたしはイエスと言う――とまではいかずとも、少なくともノーではないと。

「ちょっと考えてもいい? 大事なことだから」
「いいよ」
「あ、猫のことも――見に行くだけ行きたい」
「日曜日な」

その日曜日、かわいいパステル三毛の子猫に夢中になってしまったけれど、『俺、犬派なんだよな』とかいう声が聞こえてきて、犬もいいかも――と考えてしまったとき、わたしの人生は決まったのだと思った。


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