小説 | ナノ



海外出張が入って忙しいからと息子を連れてきた元妻にうっかり「えっ……絶対僕のほうが忙しいよね?」と口走り、視線だけで呪霊に致命傷を与えそうなほど彼女の機嫌を損ねてしまったあの日から一週間が経った。

「あーちょっと待ちな、パジャマ着て」

風呂上がりにはりんご果汁100%のジュースを飲んでもよいということになっているので、息子は毎晩、服も着ないまま冷蔵庫まで一直線に駆け抜ける。

「ちゃんと服着ない子にはあげないよ」

約束が違う、とでも言いたげな、うらめしい目が五条を睨めつける。五条も元妻も口達者だというのに、息子はそれほど言葉数の多いほうではない。我が子ながら何を考えているかよくわからないことのほうが多いが、この年齢であれこれと考えて動いているのだとしたら、むしろ恐ろしい。

「ママは?」
「すぐ来るよ」

今夜ようやく元妻のなまえが帰国する。空港から五条のマンションに直行するそうだが、まだチャイムは鳴らない。
息子と二人暮らしの初日、些細なことで逐一電話をして鬱陶しがられた。しまいには「そんなこともわからないの」「それでも父親?」などと小言をいわれ、翌日からはやめた。しかし、そう簡単にいくはずもなく、最初の2日ほどは何日も続けて任務に明け暮れたときのように消耗し、疲れ果てていた。なにせ、父親としての経験値が圧倒的に足りない。息子が生まれる前に離婚が成立していたために、世にいう子育てには全くといっていいほど関わっていないからだ。なぜ今になってなまえが子供を預ける先に元夫を選んだのかはわからない。月に一度面会して、誕生日やクリスマスにプレゼントを贈り、養育費を支払うだけの関係性だったのに。
おとなしくパジャマを着てりんごジュースを飲み終えた息子は、大嫌いなドライヤーに顔を顰めている。細く柔らかく、五条のそれとは真反対の烏の羽くらい艶のある黒髪を乾かしながら、この一週間を振り返る。

「パパ、まだ?」
「まだ」

ちなみに、息子の身体的特徴で五条の性質を受け継がなかったのは髪と目の色だけである。顔つきなどは五条の子供時代に瓜二つだ。
あのなまえが甘やかして育てているはずもないが、ちょうど、いわゆるイヤイヤ期が重なっていることもあり、五条が閉口してしまうほど、息子はめちゃくちゃだった。手を繋ぐのが嫌いで外出も一苦労だし、偏食で少食だし、ブロックの入ったバケツをひっくり返して散らかすし――入浴後の一連の流れも、りんごジュースで釣っているようなものだ。国民的アニメのキャラクターが描かれたパッケージは今や五条の強い味方である。あれがあるから、息子はおとなしく風呂に入り、パジャマを着、髪を乾かすのだ。
保育園の連絡帳に、『集団生活が苦手な傾向にある』と書かれているのを見た。そりゃあそうだろうと五条は思う。息子には呪力がある。まだこの世に生まれて数年の、術式も確立されていない、今はまだなにもできない幼児であっても、自分が保育園の友達とは何か違うことに気がついているはずだ。それでも、普通の子供たちが通う保育園に行かせているのは、いくら五条が息子への関わり方を変えて子育てに協力したところで、両親ともに多忙極まりない呪術師を生業としている以上、仕方のないことなのだ。(五条はこのところ毎日のように託児所の新設を高専に訴えている)

「眠いの?」

大嫌いなドライヤーを終えても、息子は五条の膝の上から逃げ出さず、むしろ椅子がわりにしている。風呂上がりということを差し引いても、触れ合っているところがどんどん熱くなってくる。乾いた黒髪の触り心地が好きだ。五条が撫でるように手櫛で髪を梳くと、息子は嫌がって身をよじるが、収まりのいい体勢を探しているようにも見えた。案の定、息子は5分ももたずに眠ってしまった。今日は朝早くから「ママのおむかえ」のために張り切っていて、昼寝をしていないのだ。



なまえは21時を過ぎた頃にやっと来た。息子はすっかり夢の中で、結局起こさずに寝室に運び、そのまま寝かせている。

「硝子のところ寄ってたら遅くなっちゃった」
「なんで? 怪我でもした?」
「まさか。お土産のワイン持っていって、ついでに話し込んじゃっただけ」

同期に土産を渡すことと自分の息子とどっちが大切なんだよ――と言いたかったが、それを飲み込んでなかったことにした。どうせ寝ているのだからもう1泊くらいしても構わないし、明日からまたひとりきりの日常に戻ることを思うとなんだか寂しくて物足りない気がする。それに、そんなことを言ったら怒りを買うに決まっている。

「単純に疑問なんだけど、なんで僕だったわけ?」
「悟のところに居れば安心だから。それにこうでもしないと一生あのままでしょ」
「あのまま?」
「たまに会うだけの関係」

確かに、どこにいるより安全だし、距離も縮まった。以前はしっくりきていなかった息子の「パパ」と呼ぶ声に違和感がなくなっている。呼ぶほうも、呼ばれるほうも。

「別れたことちょっと後悔してるの」
「――そうなの?」
「後悔してるし反省してる。ひとりでなんとかなると思ってたことも実際そうしちゃったことも、悟に頼らなかったことも」

別れた理由はいくつかあるが、最たるは五条家の介入を避けるためだった。呪術界御三家に名を連ねる名門の跡取りとなれば一筋縄ではいかないことは想像に難くなかったが、だからといって、それを受け入れるつもりもなく、結果として出産を待たずに離婚することになった。そういう経緯があるからこその、今までの距離感だったわけだ。

「やり直したいって話?」
「それは考えてない」
「なんだよ」
「そうじゃなくて、これからはわたしより悟のほうが力になってあげられることが増えると思うから」

わたしはけっこう大変だったから――と言うなまえは一般家庭で呪術のいろはも知らず、家族や友人には見えないものが自分だけには見えるということに戸惑いながら育った。

「術式とか、たぶんそっちだと思う」
「根拠は?」
「ないけどなんとなく。もしそうだとしたら助けてあげてね」

五条が持つ六眼は並行して複数存在するものではないが、術式はそうではない。もしも”相伝”だとしたら、六眼ではない息子が苦労することは目に見えている。

「なんでもするよ」

返事をせずに立ち上がったなまえは、寝室のドアを少しだけ開けて中を覗いた。五条が寝るためのベッドは子供には大きすぎるようだが、息子の寝相の悪さを思うとむしろちょうどいいのかもしれない。明かりがないと眠れない息子のために、間接照明がついたままになっている。

「よく寝てるし、泊まっていっていいよ。僕出るから」
「そうなの?」
「お前と入れ違いで任務詰め込まれてんの。ひどいよね」

ちょうどそのとき、息子が布団を蹴り上げた。夢の中で何かと戦っているのかもしれない。なまえより先に五条がそばに寄り、「ああもう」とこぼしながら上掛けを直した。

「わたしたち、やっぱりやり直してみるべきかなぁ」

その様子をぼんやり見つめながら、なまえは無意識に呟いていた。初日に困り果てて何度も電話をかけてきた男とは思えないほど慣れた様子に胸が熱くなる。今までは、よく言って“近くの親戚”だった。毎月会うようにしていたが、息子は人見知りもあってあまり懐いていなかったし、五条も積極的に関わろうとせず、一緒に食事をしてもいつもなまえが間に入っていた。それが、寝相の悪い息子が蹴飛ばした上掛けを直してやる、そんな何気ないことひとつでも、ちゃんと父親に見える。これこそこの一週間の成果であり、なまえの目論見がうまくいった瞬間で、つい感極まってそんなことを口走ったのだ。

「いいよ。いつ? 明日?」

息子はきっとこの一週間のうちに「ママいつお迎えにくるの? 明日?」としつこく訊ねたに違いない。単に口癖がうつっただけなのか、それとも親子だからそうなのか。なまえが噴き出すのと同時に、息子がまた上掛けを蹴り飛ばした。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -