道沿いの花屋にまだ明かりが見えたので寄ることにした。少しでも母の機嫌を取ろうという、よこしまな気持ちで。いきなり帰ってきて、仕事もやめてアパートも引き払ったなどと言ったら、よく晴れた星空に、雷のひとつふたつは覚悟しなければならない。そう思うと気が重い、けれど、東京で暮らしを立て直す気力も意義もなくなっていたわたしには、たとえ一時的にでもここに帰ってくるほかに道がなかったのだ。楽なほうを選んだといえばそれまでだが。
この花屋はわたしが小さい頃からずっとある。それこそ母の日のカーネーションや、記念のお花は全部ここで選んだ。品揃えがいいか悪いかは、他の花屋に入ったことがないのでわからない。自動ドアが開くと、ひやりとして、ちょっぴり青臭い。花屋の匂いだ。
「いらっしゃいませ」
語尾が伸びたような話し方と声は、想像していたのとずいぶん違った。顔を出したのは、いつも「あらなまえちゃん」と迎えてくれるおばちゃん(わたしが子供のころからずっと「おばちゃん」)ではなく、ここで再会するとは夢にも思わなかった男だった。
「――花巻貴大?」
「なんでフルネーム? みょうじなまえ?」
いい歳してまだふざけた髪の色で、ヒールを履いていても見上げるほど背が高くて、口調は五線譜に踊る音符みたいに軽やかで、それに、あの当時は周りにとんでもないのが居たからしょうがなかったけれど、実は顔も悪くない。あのまま年齢だけ重ねたように、花巻貴大は高校生の頃と変わらないままだった。
「え――花屋なの? なんで、おばちゃんは?」
「ここうちの親戚の店なんだわ。おまえの言うおばちゃんは俺の叔母ちゃんなの」
そのおばちゃんが二週間前、体調を崩して入院することになり、ちょうど実家に戻ってきていた無職の花巻に白羽の矢が立ったそうだ。「うちにちょうどいい穀潰しがいるって母ちゃんが勝手に返事してさぁ――」と花巻は愚痴まじりに続ける。これからわたしも穀潰し呼ばわりされるのかと思うと耳が痛かった。せめてバイトくらいはしなくては。
「なんで仕事やめたの?」
「あー、まぁ、いろいろ? あるじゃん、社会人」
「あるね」
「とにかくそういうこと。みょうじは帰省?」
「わたしも――いろいろあって仕事をやめまして」
「マジか。一緒だな」
それにどう返したらいいかと戸惑いながら、冷蔵庫の中を見る。定番の赤いバラ、ガーベラ、カーネーションにトルコキキョウ、かすみ草。母の好きなカラーもある。
「カラー、もらえる?」
「なに?」
「カラー」
「どれ? わかんねぇんだわ、俺」
「そこの、白いシュッてしてるやつ」
「あーこれな、はいはい」
何かの記念日でもないこういうときは、多すぎず少なすぎずちょうどいい本数にしなければならない。適当に取り出そうとする花巻に「それじゃなくてこっちの」とか「やっぱりあっちの」と面倒な注文をつけながらバランスを見て、末広がりで縁起がいいからと8本にした。悪くない大きさである。
「悪いけど俺花束とか作れねぇんだわ」
「あ――そうなんだ、じゃあただ束ねてリボンだけ掛けてもらえる?」
「だからできねぇんだって」
「――リボン掛けるだけだよ?」
「お客様ぁ、大変申し訳ございません、当店そういったサービスは出来かねます」
その言い様には、さすがにカチンときた。この野郎、引き受けたからにはちゃんとやれ!
さすがにこのままでは贈り物としては不適格なので、「店長ぉ、ちょっと失礼してよろしいかしら」といやみったらしく言って、色とりどりの包装紙やリボンが見え隠れしているレジ台の奥に侵入した。
「お金とっていいから、そこの白いリボン切ってくれる? 鋏借りるね」
花鋏で茎の長さを揃えたあと、輪ゴムで仮止めして、花巻が適当な長さで切った白いリボンを輪ゴムの上に巻き付けて結ぶ。たったそれだけで、8本のカラーは花束として成立したように見える。隣で花巻が感心したように「おお」と声をあげた。
「ねぇ、花巻一人でやれてるの? ここ」
「花束とかアレンジメントは断ってる」
「ただ売るだけ? そのままで?」
「輪ゴムくらいはするけどな」
「ドヤ顔やめて、全然ドヤれないから、それ」
これまでのわたしの人生と共にあったといっても過言ではない、おばちゃんが守ってきた街はずれのこの小さな花屋が、花を輪ゴムで束ねるだけのことでドヤ顔をするような男のために経営が傾いたりなんかして、そのまま閉店でもしたら、今ここで花を買った客のひとりとして、高校時代に店長代理とクラスメイトだった者として、責任の一端を感じる。
「おばちゃん、いつ頃復帰するとか、そういう目処はついてるの?」
「悪いとこ切って夏には退院するらしいけど、詳しい話は全然」
暖かい日が増えてきたから、もうすぐ冬も終わるのだろう。少なくとも、花巻は季節をひとつやり過ごさなければならないらしい。
春といえば、花屋は忙しいのではないだろうか。卒業式に入学式などの学校行事に加え、年度末を区切りに退職したり、あるいは定年を迎える人も数多いるはずだ。そういうとき、花束は最も手軽でわかりやすい餞別の品といえる。そんな、せっかくの稼ぎ時に、ブーケのひとつも作れないのでは話にならない。
「花巻、ここバイト募集してない?」
働くあてがあるといえば、母の雷もそれほどひどくなく済むだろうか。
「大人に訊いてみるわ」
「ていうか、なにがなんでも説得して」
花とリボンの代金を支払い、花巻と目が合って、なんとなくふたりして頷きあった。それこそがお互いにとって最善であると認識したのだ。
「とりあえず、飲み行く? 松川とか誘って」
「なんで松川誘うの?」
「――いや、なんとなく、ふたりだとなんかアレじゃん」
「アレってなんなの? これからふたりでやっていかなきゃいけないのに。わかってる?」
わたしのいらだちを知ってか知らずか、花巻はわざとらしく顔を背けて、頼りない声で「なんかさぁ、」と呟いた。相槌を打ってもだんまりなので、余計にいらだってくる。そもそもカラーが萎れないうちに家に帰らなければならないのに、飲みになんか行っている場合ではないのだ、わたしは。
「俺たぶんそのうちおまえに惚れると思う」
今度はわたしが情けない声で「なに言ってんの」と顔を背ける番だった。だんだん恥ずかしくなってきて、「そんなことより」と簡単にそっけない態度をとる。
「母が家に入れてくれなかったら助けてくれる?」
「いいよ。ふたりでやっていこうぜ」
そういえば、花巻って地味にモテていた。
今更になって、それを実感するとは思わなかった。