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「佐久早ってさあ」

三限目の数学の授業について書いていた手が止まる。ボールペンを握りしめたまま、佐久早が「なに」と短く言う。

「みょうじちゃんのこと好きでしょ」

どんな反応をするか気になった。単純に。深い意味なんかない。あの子のことはみんなが苗字で呼ぶのに、佐久早だけは名前で呼ぶのだ。その特別感に、わたしみたいなお年頃の乙女が気づかないわけがない。

「佐久早だけ名前で呼ぶじゃん」
「マネージャーだから」
「古森は苗字で呼んでたし」
「――だからなんだよ」
「ふつう、好きな子じゃなかったら名前で呼ばないでしょ。みんなから名前で呼ばれてるならともかく」

「それは桜山の思い込みだろ」と、佐久早は再び数学の授業についてペンを走らせる。
想像していたより、佐久早の反応はずっと冷静だった。顔を真っ赤にして「ちげーし!」と負け犬の遠吠えみたいなセリフを吐く佐久早を、ちょっと見てみたかったのだけれど。

「さすが青い血流れてるって言われるだけあるわ」
「はぁ? 何の話」
「佐久早の血の色だよ。青いって噂だよ」
「赤いし」

心底どうでもいい、みたいな顔をしているくせに、否定はしなかった。なるほど、やっぱりそういうことね、と確信する。
うちのクラスは、日直は出席番号順で隣同士だった男女の組み合わせで担当する。佐久早は字がきれいだから、たいてい日誌を書いてもらっている。この字を見ていると、この男の育ちの良さを思い知る。実際、いいとこの子らしいし。クズの父親と別れた母親が玉の輿に乗って、継父のおかげで井闥山に入れたわたしとは、本来住む世界が違うのだ。風が強い日には家が揺れるとか、土砂降りの日にはあちこち雨漏りするとか、母親がパート先のスーパーから持って帰ってきた期限切れの菓子パンが毎日の朝ごはんとか、そういう暮らしを、たぶん佐久早は知らないだろう。

「みょうじちゃんかわいいよねえ。シンプルにいい子っていうか。厭味がなくて」
「お前ら仲良いの」
「うーん……話はするよ。結構喋ってくれるほうかな」

佐久早の定番の相槌である「へぇ」は、窓ガラスにあたって大きな音をたてるほどの雨にかき消された。正午ごろから降り続いている雨のおかげで、うねる髪が気になってしようがない。

「何話すの」
「気になっちゃう感じ?」
「ウザ」
「べつに普通のことだよ。コンビニにじゃがりこの新味出てたとか好きな映画の話とか」
「LEONだろ」
「ああ、そうそう。ちょっと意外だったけど。熱弁されて帰りにTSUTAYAで借りて観たわ」
「俺も」

そのときの佐久早は、いつものポーカーフェイスは見る影もなく、目は口ほどにものを言っていた。
日誌の記入が終盤に差し掛かったころ、雨足が更に強まった。窓の外を覗いても、白んでいてよく見えない。

「告んないの?」

ペン先が、また止まる。佐久早はうんざりした、呆れた様子でこちらを見た。

「進まないんだけど」
「そんな難しい質問してませんけど」

すると完全に手を止めてペンを置いた佐久早は、これ見よがしに盛大なため息を零して頬杖をつく。
みょうじちゃんはモテる。誰とでも会話ができるということは才能だ。そこに抜群の記憶力が加算されると、もはや単なる八方美人とは話が違ってくる。あの子は一度話したことはほぼ完璧に覚えている。それがたったの数秒のことでも。

「自分だけがあの子のこと好きだと思ってる?」
「――うるさいな」
「わかってるならさっさと腹決めなよ」
「ていうか、なんで桜山が気にするんだよ」

まじめないい子が多いこの学校のなかで、わたしはちょっと、いや、けっこう枠からはみ出した存在だと思う。
いつも不機嫌そうだと言われる。愛想がない自覚もしている。普通に生きているつもりなんだけれど。そして、まじめないい子ちゃんたちとてうわさ話くらいはする。一部の生徒の間で、わたしは元ヤンということになっている。あることはひとつもなくて、ないことばかりのしょうもないうわさ話だ。
けして素行がよかったとはいえないが、元ヤンというには浅すぎる。反論しようと思えばいくらでもできるのだが、相手にするのも正直面倒臭い。それはわたしが浮いていることの原因のすべてではないが、一因ではある。だから友達と呼べる存在はいないし、気軽に声をかけてくる人もいないから、一日中誰とも話さない日も少なくない。
みょうじちゃんはうわさを知ってか知らずか、わたしに用件以外のことで声をかけてくる稀有な存在である。友達と呼ぶには浅いけれど、だからこそ、気負わずに話せることもあるのだ。

「もどかしいんだよね」
「は?」
「アンタたち。もどかしいの」

お返しとばかりに、これ見よがしに盛大なため息を零してやると、佐久早は顔を顰めて「なんだよ」と悪態をつき、再びペンを手に取った。「よく降るねぇ」というわたしの独り言に返事をしたのは雨の音だけだった。



「佐久早くん! よかった、ここにいて」

わたしは日誌を提出しに職員室へ、佐久早は部活へ行こうと席を立ったときだった。
うわさをすればなんとやら、である。
みょうじちゃんはわたしと目が合うと、少しはずかしそうにして「あっ桜山さん」と小さく手を振ってきた。

「なに? どうした」

佐久早の、その声色のやさしいこと。
さっきまでわたしと話していたときの音とはまるで別人のようだった。

「体育館、雨漏りで練習中止になったから――」

「電話でよくない?」と外野のわたしが口にする前に、佐久早が「ありがとう」と返していた。みょうじちゃんは照れくさそうに頷いて、ああもうほんと、もどかしいったら――と、わたしが一人でやきもきしている。

「みょうじちゃん、佐久早に送ってもらいなよ。練習ないなら帰るんでしょ」
「えっ――でもわたしすぐそこだし、」
「いや雨ひどいし危ないよ。いいでしょ?」
「――いいけど」

それでも遠慮するみょうじちゃんを言いくるめながら、三人で教室を出る。
わたしは二人の後ろを歩いた。割って入るほど野暮な女じゃないし。雨のせいでじめじめしているというのに、いやに清廉な感じがした。少女漫画のワンシーンみたいな、ピュアな空気が漂っている。

「桜山さんも一緒に帰ろうよ」
「ああ、いいの。彼氏迎えに来るから」
「――桜山さん、彼氏いないんじゃなかったっけ」

「今日だけいるの」と適当に返事をする。
実は、みょうじちゃんとは、そういう話もけっこうする。わたしたちくらいの年頃の女子高生が花を咲かせる話題といえば、そりゃあもちろん、恋の話である。
だから、わたしは知っている。
知っているけれど、これ以上は当人同士で頑張ってもらうしかない。できる限りのアシストはしてあげたし、これからもするつもりだけれど。

「じゃあ日誌置いてくるから」

佐久早に口パクで「がんばれ」と伝えると、相変わらず眉を寄せるだけだった。
豪雨の中を歩いていくふたりを見つめながら、今朝は快晴だったせいで傘を忘れたことを思い出した。あのピンクのものを借りていれば、ふたつの後ろ姿はひとつの傘の下にあったかもしれない。
翌日のわたしが風邪を引かずに登校し、無事みょうじちゃんから報告を聞けたのは、あのとき偶然通りがかった古森の傘に入れてもらったからである。


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