どうして走らなければならないのだろうか。
 そんな疑問は生徒全員が思っているだろう、と土方は校庭を走る。
 秋を通り越して冬になった今、間近に控えたマラソン大会のため、体育の授業は全学年共に持久走であった。週に2回の体育でグランドを走る。部活を引退し、体力がだいぶと落ちてきている身体には少し辛い授業であった。しかも月曜日の6限目とあっては1週間が余計に長く感じられる。

(あと、3分)

 土方は走りながら校舎に付けられている時計を見る。今日は時間走の日であった。距離を決められている日は走り切れば終わり、という目に見えてのゴールがあるが、時間だとそうはいかない。だが、ペースを落として走ると教師に注意されるし、土方の筋力的には遅すぎるペースはむしろ息が切れてしまう。
 だが、去年はここまでキツくなかったはずだと、土方は体力の衰えを感じながらすっかり重くなった足を前に押し出す。
 ピー、と終わりを告げるホイッスルが鳴った。それを聞いた土方はゆっくりとペースを落とす。息がなかなか整わず、酸素を取り込もうとすると肩が激しく上下に動いてしまう。そして歩きながら教師の元へと足の向きを変えた。
 土方の喉は渇きを訴えっている。走った後、独特の喉の痛みが酷い。ひりひりと喉が焼けているようだ。もう今日の授業はこれで終わりだと思うと早く教室に帰りたくて仕方がなかった。
 グランドで教師に挨拶を終えると、土方は早足で更衣室に向かう。汗を吸った体操服を早く脱ぎたい。それはだんだんと外気温によって冷やされていき、もう冷たかった。
 ズボンを穿き替え、カッターシャツを着、学ランを羽織る。体が火照ってて熱を持っているため前のボタンは開けたまま土方は体操服を手提げに入れ、更衣室を出た。

(喉、渇いたなぁ)

 土方は教室までにある自販機の前で立ち止まる。財布は持っているのだから飲み物は買えないことはない。それほど小遣いに危機はないし、今の暑さを紛らすことが可能な冷たいものもあった。だが、教室にはぬるいがペットボトルに入った麦茶はある。
 どれにしようかと悩みながら土方は財布を取り出し、自販機に向かった。
 1番上の段にカルピスがある。
 冷たい麦茶よりも、好きなコーヒーよりも何より先にその白色に目がいった。土方は自販機に小銭を投入する。ちゃりんと機械に飲み込まれる音がし、ボタンが点灯した。土方の指はカルピスに伸びる。

(喉が渇いたから、ただ飲み物を買うだけだ)

 土方の人差し指の少し伸びた爪がプラスチックのボタンに当たり、カチリと鳴った。だが、それ以上の力を加えられない。ボタンを押せない。
 土方は釣り返却のレバーを回した。こちらにはすんなりと指が伸びたことに苦笑する。

(カルピスみたいな甘いものじゃ喉は潤わない)

 土方はそう結論付け、小銭に回収し財布に仕舞った。教室へと急ぐ。更衣室からいつもより時間をくってしまったためもうホームルームは始まっているかもしれない。
 そう思い、走ろうと思ったがすぐに止めた。どうせ銀八はホームルームでは何も重要な連絡はしないだろうし、授業ではないのだから出席点にも響かない。何故、体育で走った後にまた走らなければならないのだろう。そんな必要はないのだ、と土方はゆっくりと歩き出した。
 そう怠惰な気持ちが抜けきれぬまま教室に着くと、もうホームルームは終わっていた。教室にはもう担任の姿はなく、生徒もまばらである。土方は目立たないようこっそりと教室に入るが、入った瞬間に指差された。
 沖田だ。

「あ、サボり魔」
「ちげぇよ」
「じゃあ、何をしてたんで?」

 沖田は土方に真正面から詰め寄る。そのにたにたとした顔は土方に苛立ちしか与えない。

「…自販機でジュース買おうとしたら、」

 買おうして小銭を入れたはいいが、カルピスに先生を思い出し買えなかった。その場で自分には喉の渇きが云々と理屈をこねてみたが、結局はそうなのだ。
 カルピスの味は先生が教えてくれた。

「財布が貧乏すぎて足りなかったんですかィ?」

 土方の言葉が中途半端に止まったことに沖田はからかうように続きを捏造した。土方としては財布にジュースを買うほどの金額すらなかったと言うは不名誉極まりないが、事実を話すわけにもいかない。土方は頷くしかなかった。

「そ、そうだよ」
「そんな自分にショックを受けてホームルームをサボったと」
「…あぁ、もうそれで構わねぇよ」

 土方はため息をつきながら沖田から離れる。自分の机に着替えの入った手提げ袋をどさっと置いた。受験勉強に必要なテキストは自宅に置いてあるので机の中身はほぼ持ってそのまま、帰り支度は簡単だ。
 土方はカバンに入れていた麦茶を飲み、体育着と筆記用具など、最小限だけを詰めたカバンを背負う。そのまま教室を出ようとするとドアにはまだ沖田がいた。

「…チャイナと帰らなくてもいいのかよ」
「死ね土方」
「死なねぇよ!…何か用か?」
「担任サマから連絡でさァ」
「……は?先生から?」

 先ほどまで銀八のことを考えていたせいか『担任』と聞いただけで土方の心は一気にざわめく。飲めなかったはずのカルピスの味が口の中に広がった気がした。

「サボった悪い子は準備室に来い、ですって。行く行かないは土方さんの自由ですけど、確かに伝えましたからね」

 沖田は無表情で廊下を指差し、じゃあお先にと土方の返事を聞かずに廊下に出て行った。
 土方は立ち止まり、足を見る。指先からじんじんと冷たくなっていく気がした。床から冷気が移ったようだ。

(…それは、準備室に入ってもいいってことか)

 進路指導の時に拒絶を示されてから土方は準備室に足を踏み入れていない。明確なそれを言われたわけではないが、土方にとってそれは拒絶も同然であった。
 教室を出、準備室へと向かう。通い慣れたそのルートは思い出すまでもなく辿れる。廊下は放課後とあって生徒が多く、騒がしい。だが、教員の部屋が並ぶ職員塔に近づくにつれ人気が少なく静かだ。
 土方が廊下を歩く音だけが響く。

(うん、普通にノックをして入ればいい、それだけだ)

 土方は右手のひらを広げ、握り込む。この手でノックをすればいいのだ。目の前に手を振り上げ、手の甲でドアを軽く叩くだけ。それだけだと心の中で唱える。

「無理だろ…」

 思わず声に心の内が漏れていた。
 どうして、冬なのに受験生に走らせるんだ。そんなどうでもいいようなことを銀八に聞きたい。話したい。
 気軽に会話ができていたのはいつのことだろうか。あの進路相談でこちらからまた来てもいいか、と尋ねたことが間違いだったのかと土方は後悔に苛まれる。だが、自分からあの質問を繰り出さなければいつかは本人から忠告されたのだろう。ただの一生徒が準備室に居座っては迷惑以外の何物でもない。それは時間の問題だったのだろう。
 そう考えるとまだマシだったのかもしれない、土方はため息をついた。すると、廊下に声が響く。その声の主は今まで考えていた人物だ。

「土方」

 まさか考えていたことが筒抜けになっているようなことはないが、土方の心拍数は上がった。バッと慌てて振り返る。右手は下ろした。

「もう来れたの?ってことは急げばサボらないでもホームルーム出れたんじゃないー?」

 銀八は明るい調子で笑いながら、出席簿で自身の肩をぽんぽんと叩く。徐々に縮まる距離に土方はすみません、と頭を下げた。視界には廊下と自分の足。だが、そこに銀八の使い古されたスリッパが入り込む。

「いやね、謝ってほしいわけじゃないんだけどね、なんでまたサボったの?」

 こんなの初めてでしょ、と銀八は首を傾げる。確かに土方は銀八の授業はもちろん、ホームルームすらサボったことはない。今回が初めてだったのだ。

「別に、特に理由はないです」
「嘘」
「じゃねぇよ」
「ほんとにー?」
「…もうどうでもいいじゃないですか、次からは出ますよ」

 土方は本当のことを告げるつもりはなかった。誤魔化せるのなら誤魔化したい。カルピスを買おうとして、買えなかくて突っ立っていたから。とは、いったいどんな理由なのだろうか。土方は吐き捨てるように銀八に言い、一歩下がった。だがその分を銀八は半歩で縮める。

「いや、まぁホームルームをサボったからって国立受験だし内申なんて関係ねぇんだけどさ」

 銀八は出席簿を持っていない方の手で髪をかきむしる。そして眉間に皺を寄せながら土方と目を合わせた。その表情は苛立ちからくるものではなく、少々困った時にする顔だと土方は知っている。それほどまでに銀八を知ってしまっている自分に土方は口の中を噛んだ。

「でもほら、担任として一応は叱らないとだし、さ」
「…じゃあ、もう叱られたんでいいですよね」

 土方はまた一歩下がる。

「そりゃあ、まぁみっちり叱らないといけないものではないわな」

 銀八は手のひらを天井へ向けた。土方はもう準備室に行く必要はなくなったと、銀八の視線から外れ、離れるために足を踏み出す。3歩進み、土方は振り返った。
 聞いておきたいことがあったのだ。

「…今、体育でマラソンやってるんです」
「あ、冬だしマラソンの時期ね」

 国語教師は体育の授業の内容を知っているのだろうか。適当に学生時代を思い出し頷いているのだろうか。

「先生、どうして寒いのに走らないといけないんです?」

 寒いグランドを半袖で走る体育は何のためか銀八なら答えてくれるのだろうか。寒い思いをして走る理由はどこにあるのだろうか。

「暖かくなるため、か」

 端的に答えた銀八に土方は手を握り締める。手のひらに爪が食い込み、少し痛い。だが、土方は問いかけを中断し、帰ることはできなかった。
 どうしても知りたいのだ。
 暑さが終わり寒くなった今、走っていてもいいのだろうか。

「…むしろ風邪ひきませんか」
「いんや、全力で走れば大丈夫だろ、熱くなって風邪なんて予防できる」

 銀八は歯を見せて笑う。土方にはその姿は大人ではなく、まるで子どもように見えた。

「先生、今日も寒いですね」

 うん、寒いね。と銀八は同意を示し、頷いた。もう会話は続かない。何も話題が思い浮かばなかった。
 以前もこうだっただろうか。こんな気まずい沈黙があっただろうか。

「…さようなら、先生」

 吐いた息はまだ白くならない。







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