日ごとに風は冷たさを増し、そうかと思えば熱含みの風が吹く。
 秋という季節はこんなにも曖昧で落ち着かないものだったろうかと内心首を傾げながら、今日はすこし肌寒い廊下で呼び出しを待っていた。
 春からのんびりとしたペースで行われていた二者面談、三者面談も、季節が変わるにつれて徐々にその真剣みも中身も変わってきた。より実際的になってきている。
 そんな分析をしながら、土方は廊下に用意された椅子にひとり座って教室の前で待機をしていた。面談の時間はあらかじめ割り振られているが、予備校の講義に配慮してかその時間割はなかなかタイトだ。だから、すぐ本題に入れるよう、面談の順番が回ってくる前にあらかじめ待機をしておくように、というのが、二者面談のプリントが配られたときに銀八から言われた言葉だった。

(3分オーバー…)

 待機の椅子に座ってから、すでに10分弱が経過している。数分は誤差の範囲内だろうが、土方は焦れる。
 それは予備校に遅れるから、とか、待たされるのが嫌だとか、そういった類のものではなく、(じゃあ何だっていうんだよ)焦れた思考のまま自分を詰ってみて、そしてようやく素直な回答に行き着いた。

(先生が他のヤツの相談にのってる)

 その事実が嫌なのだと、思っていることを自覚して、土方はすこし、肩を落とした。
 器が小さい、教師として当然のことだ、丁寧に相談にのる担任であるのは望ましい、いや何より、

(……先生)

 春先に出会ってからはや半年。目を背けてはいられない現実が、まさか受験以外に持ち上がろうとは思いもしなかった。
 膝の間においた手の、指先をいじる。何かの拍子にささくれてうっすら血が滲んだ薬指の爪先を撫でて、そのかゆいような痛みが指先から全身にまわるのを感じた。

(せんせい)

 考えるほどに頭はどんどん下がっていって、ひょっとするとこの地点の重力は他よりも強いのではないだろうかと思うほどだ。ほとんど頭を抱えるような姿勢になった土方の後頭部に、こつんと軽い衝撃が走った。

「ほーら、廊下で寝るんじゃないの」
「すみません土方さん、話が長引いちゃって」

 顔を上げると、面談名簿を持った銀八と、並んだ山崎の顔が見える。そういえば自分の前の生徒は山崎だったことを思い出して、胸のなかをもやもやと占領していた焦燥が幾ぶん薄らいだ。薄らぐのも切ない。

「うお、廊下寒ぃな今日。待たせてごめんなー。なんかジミーったらガラにもなく色々煮詰まってるみたいでよお」
「ちょ、先生、さっきここで話す内容は他言無用だとかなんとか」
「だからさ、ま余裕がないもの同士、土方とジミーで、共感できる部分もあるだろうから、先生に言いにくいくだらない愚痴とかは勉強の合間にでもこぼしあいなさい」

 さあそしたら、ジミーははよ帰って、土方くんもささっと終わらして帰ってホットイチゴミルクでも飲もうぜ。
 銀八がぱんぱん、と山崎の背中を叩いて彼を見送る。そしてようやくこちらを振り返っていつもの調子でへらりと笑った。

「いやあ、いいねえ。ああいう感じの真面目さも器用さも不器用さも。土方と気が合うのがわかる気がするわー」
「あいつはマメで、要領も良いから、本人が言うより受験もうまくやると思います」
「そだね。本人もそれを自覚してて、でも自覚してる能力に現状がちょっと追いついてなくて軌道修正をどうするか悩んでるんだろ」
「でも今のまま行けば大丈夫、なんでしょう」
「教師の使う常套句だね。今のままって、どういうことなんだろうなって。今いる場所がわかってたら、誰も悩まねえよなって」
「そういうこと先生が言っていいんですか」
「え?いいっしょ土方なら。ダメ?」

 首を傾げて聞いてくる銀八と長く目を合わせていられず、土方は視線をそらしながら椅子から立ち上がった。

「…ダメとか、ダメじゃないとかじゃないんじゃないですか」
「うんうん。土方のそういう真面目な返しも好きだよ。じゃあはい、ここ寒いし教室でだな。まあちょっと恋愛相談ごっことかしてみよっか」

 銀八にしてみれば土方の気持ちを解すための軽口だったのだろうが、それはまさに土方の現状にぴたりとはまっていて息が詰まった。

「……はい」

 銀八が開けた教室のドアをくぐりながら、みょうに痛い心臓に、これがある種の病気であることを自覚した。


***


 広い教室でふたつだけ向かい合わせにした机をはさんで向き合う。
 土方の成績の推移について話していると、それぞれの模試の月に起こった共通の話題にまで話が及んだ。それが、土方は特別だ、と言われているようで嬉しかった。本当はクラス担任なのだからそんなことは特別なことでも何でもないに違いないのに。

「うん。今のところは順調だな。もしかしたら冬の一時期伸び悩むかもしれねえけど、ちゃんと今のうちから自分のペースができてるし…悩んだときに、また話においで」
「はい」
「…じゃー、今日のところはこのくらいかな。あと何か気になるとことかある?」

 ぱたん、と分厚い成績のファイルを閉じた銀八は、今までの面談による疲労も溜まっていたのか大きく伸びをして、それから眼鏡を外して眉間を揉んだ。
 眼鏡を外したまま、目を細めて腕の時計で時間を確認している様子に、次の生徒、の影が脳裏をよぎってそれが自分でも驚くほど不愉快だった。

「……相談、ていうか」
「うん」
「確認、ていうか」
「確認?うん、なんの?」

 眼鏡をかけなおした銀八の手が閉じたファイルをまた開けようとして、途中で制止する。
 その左手の薬指に指輪がないことに今更のように気付きながら、土方は銀八を見た。

「これからも、準備室、行っていいですか」

 かち、と時計の短針が動いて、合図のように携帯電話のバイブが鳴った。
 おそらくは電話の呼び出し音のそのバイブが鳴りつづけているのに銀八は間の抜けた顔で土方を見つめて、しばらく沈黙のなかにバイブレーションの振動音だけが空しく響いていた。
 バイブが切れて、それからさらに数秒がたってから銀八は困ったように頭を掻きながらようやく、口を開いた。

「それは、ダメだ」

 予想外の言葉に土方は瞠目する。無意識に受け入れられることを信じていたのに裏切られたショックは深く、今度は土方が沈黙する番だった。

「これからは今までより成績とか進学に関するデリケートな書類の取扱いが増えるから、あんまり生徒を部屋に入れらんねーんだよ」

 嘘だ、と直感した。
 準備室で誰かの成績表が無防備に机の上に広がっているのを今までに何回も見たことがあったが、土方がのぞき見たことは一度もない。それは銀八も知っているはずだ。

「……先生がいるときならいいってことですか」
「もちろんそれをダメとは言わねえけど、土方はさ、オレが指導しなくってもきちーんとやってるんだから」
「…そんなことないです」
「そうだって」

 遠回しに土方を避ける物言いに、気づけないほど無神経ではない。
 どうして、という言葉が頭を廻った。
 避けられる理由がわかるほど勘は鋭くない。

(なれなれしくしすぎて不快にさせたのか、それとも元からオレが行くのは迷惑だったのか?)

 そんなはずはない、と思いたかった。
 だって準備室で銀八が土方を引きとめたのは、つい先月の話ではないか。
 そもそも土方を準備室に招き入れたのだって銀八なのに、それをなぜいきなりこんな所で放り出すのだろう。どうして。

「…どうして、ですか」
「…オトナの事情」

 全く、何にも答えていないその回答は、言外に土方を子供だと言っている。そんなことはわかっているし、わかりたくなかったのに。

「でも、準備室がダメだっつっても、たかがそれだけだよ。相談があれば放課後教室残ったっていいし、事前に言ってくれれば準備室も開けとくから。今とそんな変わらねえって。今までどおりだよ」

 言い訳のように並べる銀八が、余計にその奥に何か違う真意を隠しているようで辛かった。
 今いる場所がわかっていたら誰も迷わないと、言っていたのは銀八本人なのに、それを忘れたように振る舞う銀八が嫌だった。
 準備室で一緒にカルピスも飲めないのに、何がそれで今までどおりなのだろう。銀八にとって今までとは何だったのだろう。
 銀八にとって土方はやっぱり、あくまで、ただの、一生徒でしかなかったのだろうか。

「オレ、先生のおかげでカルピス飲めるようになりました」
「オレも土方のおかげでコーヒーもちょこっと好きになったよ」
「……オレも、好きです」

 精一杯の気持ちをこめて言った言葉は、もう一度鳴った銀八の携帯電話に邪魔をされた。
 今度は迷わず電話に出た銀八は、二言三言短く応対して電話を切った。
 俯いた土方は、そういえば左指にできていたささくれを見つめた。偶然にも左手の薬指にできたそのわずかな傷の痛みを思い出す。

「じゃ、とりあえず今日のところはこれでいい?」

 笑顔を向けてくる銀八に、土方は泣きそうだった。
 何も伝わらない、何も感じてもらえない。
 今まで距離を縮めたと思ってきた、坂田銀八は、きっと決してそんな態度は取らなかった。今までどおりなんかでは、全然ない。

「……はい、」

 うなだれたまま頷くと、銀八がはげますように頭に手を置いた。でもその手は、間違いを犯したことに気付いたかのようにすぐ離される。
 机のフックに下げた鞄を手にとって、どうもありがとうございましたと口の中で呟いてから立ち上がった。
 土方が立ち上がっても銀八にその素振りは見えず、山崎の時のようにドアまで送ってくれる気がないのは明らかだ。

「失礼します」

 ドアの前でもう一度教室を振り返ると、こちらを見ていた銀八と目があった。その目が意外にも、あんまり、優しそうで悲しそうだったから。

「先生」
「ん?」
「…先生は、大人ですか?」

 すがるように聞いたその言葉に、銀八は目を伏せた。
 それが拒否の素振りなのかそれとも一縷の希望なのか、せめてもの期待を寄せて目を背けないでいると、銀八が笑みを浮かべながら言った。

「オレは、大人だよ」

 ――じゃあオレはどうすればいい?
 廊下に出るともううっすら冷たい風が、ひたすら寒かった。
 面談を待つクラスメートが、すでに廊下の椅子に座っていた。










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